もののけ姫の物語の中で、最も印象的で悲しい運命を辿ったキャラクターの一人が、白い毛をまとった巨大な猪神・乙事主(おっことぬし)様です。「一族からタタリ神が出てしまった」という悲痛な言葉から始まり、最終的には自らもタタリ神となってしまう乙事主の物語は、多くの視聴者の心に深い印象を残しています。
この記事では、乙事主の正体から悲劇的な最期まで、その全てを詳しく解説していきます。
乙事主の基本プロフィール:猪神たちの偉大なる王
乙事主は、四本の牙を持つ巨大な白い身体の猪神です。年齢は500歳の最長老で、猪神一族の王です。高齢により視力を失っているものの、優れた嗅覚と長年の経験により、多くの猪神たちを率いる偉大なリーダーとしての役割を果たしています。
乙事主とともに鎮西(九州)からやって来た猪神たちには、ナゴの守は「美しく強い兄弟」と呼ばれていました。これは、乙事主とナゴの守が同じ猪神の一族出身であり、深い絆で結ばれていたことを示しています。
項目 | 詳細 |
---|---|
年齢 | 500歳(猪神の中で最年長) |
出身地 | 鎮西(九州地方) |
身体的特徴 | 白い毛、四本の牙、巨大な体躯 |
身体的状態 | 高齢による視力低下(白内障と推測される) |
性格 | 誇り高く、義理堅い、心優しい王としての度量 |
なぜ乙事主はシシ神の森にやってきたのか?
乙事主はナゴの守がタタリ神になったことを「一族からタタリ神が出てしまった」と悲しく思いつつも、彼の死を受けて一族を率いて九州から海を渡り、シシ神の森を守りに来ていました。
乙事主がシシ神の森にやってきた理由は以下の通りです:
- ナゴの守の仇討ち:同族であるナゴの守をタタリ神にした人間への復讐
- 森の守護:エボシ御前たち人間による森の破壊を阻止するため
- 猪神の誇り:一族の威信と誇りを守るため
- 最後の戦い:人間に対する最終決戦への覚悟
乙事主は鎮西と言われる場所、今で言う九州から海を渡り、山々を越えてシシ神の森の危機を救うために来たのです。この長い旅路は、まさに命をかけた決死の覚悟を物語っています。
乙事主の性格と人柄:誇り高き猪神の王
人間であるアシタカやサンに対しても、彼等の言葉に耳を傾け尊重し、アシタカに対して戦が始まる前に逃げる事を示唆する等、偏見に囚われず心優しい王としての度量をきちんと持っている。
乙事主は単なる頑固な老齢の神ではありません。彼の人格には以下のような特徴があります:
広い度量と優しさ
猪神全体に言えることだが、よく言えば誇り高い、悪く言えば頑固で融通が利かない性格の持ち主である。とは言え、年の功もあって他の猪たちより器が大きく、他者の意見をちゃんと聞くことも出来る。
猪神としての誇り
モロの君曰く「少しは話のわかりそうな奴」だが、「死ぬと理解していても、猪族の誇りの方を優先してしまう」とのこと。モロとの別れ際には、そんな性格を表すかのように、「たとえ我が一族が悉く滅ぼうとも、人間に思い知らせてやる」と呟いている。
現実的な危機感
時代の流れなのか、同族の猪が小型化していることも心を痛めている要因のようです。乙事主は猪神たちが弱体化していく現実を深く憂慮していました。
モロの君との過去:100年前の恋仲説
(監督)「乙事主とモロは昔、いい仲だったっていう。100年前に別れたと思って…」それを聞いた美輪さんは、「イノシシとイヌが、ハハッ!」と笑いますが、リテイクでは見事に、女性らしさや乙事主を案じる気持ちがセリフに内包されます。
この裏設定は、宮崎駿監督自身がアフレコ中に美輪明宏さんに明かしたものです。
二人の関係の詳細
年齢は500歳ぐらいで、モロは300歳ぐらいだそう。そして100年程前までは好い仲だったそうである(公式アカウントは年の差カップルと称した)。劇中で300歳のモロと500歳の乙事主は、若い頃から交流があり、1度は恋仲になりました。しかし人間を憎む気持ちは同じであるものの、彼らへの対抗の仕方をめぐって意見が対立し、100年前に別れたのだとか。
別れの理由
二人が別れた理由は:
- 対人間戦略の違い:人間への対抗方法についての意見の相違
- 価値観の違い:森の守り方に対する考え方の差
- 猪神の行動への反対:モロは猪神たちの森の食い荒らしを快く思わなかった
モロ自身も彼等に挑発的な態度ではあった(猪神達もかなり高圧的な態度を取っていたのでお互い様だが)が古い付き合いである乙事主を見た際は「少しは話の分かる奴が来た」と態度を軟化させており、多少見下しているような節はあるが猪そのものを嫌っているというわけではないようである。
戦いの化粧と猪神たちの覚悟
エボシたちとの戦いに挑む前に、猪神たちが互いに白い泥を塗り合っていました。目の周りは白く、体には何本もの線上の模様が施されています。この時、乙事主は彼らを「戦士たち」と呼んでいましたが、その姿は正に戦闘服に身を包んだ戦士そのものです。
この戦化粧には深い意味が込められています:
- 勝利と無事の祈願:戦いでの勝利と仲間の安全を祈る儀式
- 戦闘意欲の高揚:自らを鼓舞し、戦う意志を固める
- 絆の確認:互いの絆を深め、一致団結を図る
- 猪神の習性:元来猪が持つ泥浴びの習性を神聖化したもの
元々、猪には「沼田場」という泥浴びをする場所を作る習性があります。昔から猟師たちは沼田場に山の神がいると信じていたようで、猪が泥を浴びるのは体を冷やしたり寄生虫を落としたりという意味があるようです。
乙事主がタタリ神になった理由:絶望と怒りの頂点
瀕死の重傷を負い、サンとともにシシ神のもとに向かっていた乙事主。彼は人間に殺された大勢の仲間たちが帰ってきたことを察知します。しかしそれは、猪神の毛皮をかぶった人間の一団でした。仲間たちの無残な亡骸に取り囲まれ、そのことに気づいた乙事主は、怒りと憎しみでタタリ神になってしまいます。
タタリ神化の具体的なプロセス
自身がタタリ神に変貌するきっかけとなったのは、猪神達の毛皮を被った人間(猩々達曰く「生き物でも人間でもないとても嫌なモノ」)に囲まれたことだった。数多くの同胞を無残に殺され、乙事主自身も瀕死の傷を負った中、惨い手法により騙され、死んでいった同胞達を思い起こさせられたことで、人間共への怒りと恨みが膨れ上がり、荒神と化したと考えられる。
タタリ神化の要因分析
要因 | 詳細 |
---|---|
仲間の無残な死 | 猪神たちの毛皮を剥がれ、それを人間が着用していた衝撃 |
自身の重傷 | 石火矢による致命的な傷 |
絶望感 | 希望が完全に打ち砕かれた瞬間 |
死への恐怖 | モロとは異なり、死を受け入れることができなかった |
人間への憎悪 | 蓄積された怒りと恨みが限界点に達した |
またモロの君によれば、乙事主がタタリ神になったのは「死を恐れた」ためだとか。モロも同じく石火のつぶてを身に受けましたが、タタリ神にはなりませんでした。それは彼女が死に向き合い、受け入れていたからでしょう。
皮肉な視力の回復:タタリ神になって見えたもの
なお、どこか皮肉的ではあるが、タタリ神となった乙事主は自身の命を取りに来たシシ神を目で視認していた。自身がまだ正常だったころには盲目だったのだが、自身も忌諱していたタタリ神になったことで視力を取り戻したことになる。
この設定には深い皮肉が込められています。乙事主は生涯において最も忌み嫌っていたタタリ神になることで、失われていた視力を取り戻しました。しかし、その瞬間に見たものは、自分の命を奪いに来たシシ神の姿だったのです。
これは宮崎駿監督による、以下のメッセージを含んでいると考えられます:
- 皮肉な運命:最も嫌悪していた存在になって初めて真実が見えた
- 代償の重さ:望んだものを得る代償として最も大切なものを失った
- 認識の変化:視点が変わることで見える世界も変わるという暗示
シシ神による最期:救済か処罰か
モロの君が「もう言葉まで失くしたか」と切なく呟きます。乙事主は猪の誇りも忘れてしまったのでしょうか。シシ神が乙事主に近づき、そっと命を奪います。そうして苦しみから開放されたのでした。
シシ神が乙事主の命を奪った理由
シシ神の最後の行動の理由は明示されていませんが、その理由はいくつか考えられます。まずは半分タタリ神に堕ちてしまった乙事主の救済です。タタリ神の被害から森を守りたいという理由ももちろんあったと思ますが、死ぬ覚悟を持って森を守るために戦いにやってきた乙事主に、せめて乙事主の自我が残っているうちに殺してあげたいと思ったのではないでしょうか。また乙事主とモロは恋仲だった時期があるそう。モロの死も看取ったシシ神は2人の関係性を知っていて、乙事主モロのもとに送ってあげたいという気持ちもあったのかもしれません。
考えられる理由の詳細分析
- 苦痛からの解放:タタリ神として苦しみ続ける乙事主を救済するため
- 森の保護:タタリ神の害毒が森に広がることを防ぐため
- 尊厳の保持:猪神としての誇りを持ったまま死なせるため
- モロとの再会:かつての恋人であるモロのもとへ送るため
- 自然の摂理:生と死を司る神としての自然な行為
この時のシシ神側の理由は不明だが、あえて考察するならば以下の理由があり得るのかもしれない。シシ神や自然界のためとはいえ多数の一族を道連れにしてシシ神の森に破壊をもたらしたことに対する罰だった モロと共に逝かせるという温情があった
SNSと専門家の反応:乙事主への評価と考察
「もののけ姫の乙事主様と、サンの母親代わりであるモロが昔は恋人だったっていう裏設定がすごい好き だから「言葉まで無くしたか」っていう台詞が少し切なそうだったんだって」
引用:https://twitter.com/randosell999/status/764773048087166977
この投稿は、乙事主とモロの過去の関係を知ることで、作品の見方が大きく変わることを示しています。表面的なセリフの背後にある深い感情の交流を理解することで、キャラクターの行動や言葉により深い意味を見出すことができます。
「乙事主とて馬鹿ではない。全てわかっていても猪たちは正面から攻撃したいのさ。それが猪の誇りだからね」
引用:https://twitter.com/mononoke_ju_bot/status/1092043965194833920
この指摘は、乙事主の戦術選択の背景にある哲学を明確に表現しています。合理性よりも誇りを重視する猪神の価値観が、彼らの運命を決定づけたのです。
「もののけ姫の乙事主様、仲間のイノシシのこと『みんな小さく、馬鹿になりつつある』と言ってるけど、現代のイノシシの大きさは、突進してきた時に牙が人間の太ももあたりにヒットして、そこらへんにちょうど大動脈があるという絶妙な大きさに進化してるので、『人間絶対殺す!』という強い意志を感じる」
引用:https://twitter.com/Hikikomori_/status/1055811481926987776
現代の視点から乙事主の懸念を再評価したユニークな考察です。実際の野生動物の進化と作品内の設定を関連付けた興味深い解釈といえるでしょう。
乙事主の名前の由来と意味
名前のモデルは、宮崎駿が自身の山小屋を持っている長野県諏訪郡富士見町の地名からである(ジコ坊の名前もこの地に由来する)。
乙事主の名前は実在の地名から取られており、これは宮崎駿監督の創作における現実との接点を示しています。長野県の自然豊かな環境が、猪神のイメージソースとなったと考えられます。
声優・森繁久彌の演技
乙事主がシシ神の森で悲劇的な跋渉をする際、声優を務めた森繁氏に、「全体的に『リア王』のアレでやってください」と要請したとされる。乙事主の声を担当したのは、元NHKアナウンサーで俳優、歌手の森繁久彌です。
宮崎監督が「リア王」の演技を要求したことは、乙事主のキャラクター性を理解する上で重要です。シェイクスピアの『リア王』は、老王が家族や部下に裏切られ、最終的に破滅していく悲劇です。乙事主もまた、信じていた未来が裏切られ、絶望の中で破滅していく悲劇的な王として描かれているのです。
現実世界との接点:猪の海渡り能力
(馬や牛、象などにも言えるが)猪や豚は実際に海や河を泳いで渡れる。近年ではそうした姿を撮影した映像が時折撮影されたり、バハマの泳ぐ豚達も有名である。目が見えない乙事主が海を泳いで渡れる事に疑問を持つ視聴者もいるが、たとえばホッキョククジラ等は匂いで餌の位置を察知するという話があるので、乙事主が嗅覚に頼る事で関門海峡を渡る事も可能だと思われる。
この設定は、ファンタジー作品でありながらも現実的な根拠を持たせるという、宮崎監督の制作姿勢を表しています。実際の動物の能力に基づいて、神話的な要素に説得力を持たせているのです。
乙事主から学ぶ現代への教訓
乙事主の物語は、単なるファンタジーを超えて、現代社会への深いメッセージを含んでいます。
誇りと現実のバランス
乙事主は猪神としての誇りを最後まで貫きましたが、それが結果的に一族の滅亡を招きました。現代社会においても、伝統や誇りを守ることと、現実的な対応をすることのバランスが重要であることを示しています。
死への恐怖と受容
乙事主は多くの仲間を失った憎しみにその身を焼きながら、死を恐れ、生に執着するなかでタタリ神になる。死への恐れと憎しみから、我を忘れる乙事主。
モロの君が死を受け入れてタタリ神にならなかったのと対照的に、乙事主は死への恐怖に支配されてしまいました。これは、死や終わりを受け入れることの重要性を示唆しています。
世代間の価値観の相違
時代の流れなのか、同族の猪が小型化していることも心を痛めている要因のようです。乙事主が若い猪神たちの変化を嘆く姿は、現代の世代間格差や価値観の変化に対する年長者の困惑と重なります。
まとめ:乙事主が象徴する普遍的なテーマ
乙事主の物語は、もののけ姫という作品全体を通して、以下の普遍的なテーマを私たちに提示しています:
1. 誇りと現実のジレンマ
猪神としての誇りを貫くことと、現実的な生存戦略のバランスの難しさ
2. 愛と責任のはざま
かつての恋人モロとの関係と、一族の王としての責任の両立
3. 死と生への執着
死を恐れることで真の生を失ってしまうパラドックス
4. 世代継承の困難
古い価値観を新しい時代にいかに継承していくかという課題
5. 自然と人間の共存
対立ではなく、互いを理解し合う道の模索の重要性
本来であれば仲間たちと森を育て山を守りながら、穏やかに暮らしていたであろう乙事主様。タタリ神と変貌してしまい、悲しみと絶望の中で迎えることとなった最期の時。その瞬間だけでも安らかであったと思いたいです。
乙事主の悲劇的な最期は、私たちに多くのことを考えさせます。彼の物語を通して、宮崎駿監督は単純な善悪の対立を超えた、より深い人間性の探求を行っているのです。そして、その探求は今もなお、多くの人々の心に響き続けているのです。
乙事主(おっことぬし)様-この名前を聞くたびに、私たちは誇りと絶望、愛と憎しみ、生と死というテーマについて考えることになるでしょう。それこそが、この偉大な猪神の王が私たちに残した最大の遺産なのかもしれません。