もののけ姫のラストシーンについて「結局何を伝えたかったのか分からない」「シシ神の首を返すシーンの意味は?」「なぜ森が再生したの?」と疑問に思っているファンの方も多いのではないでしょうか。一見すると複雑で難解に感じられるラストシーンですが、実は宮崎駿監督が込めた明確なメッセージが隠されています。この記事を読めば、ラストシーンの真の意味と、シシ神の首に込められた象徴性について深く理解することができるでしょう。
ラストシーンの核心:シシ神の首返却が象徴する「神殺し」からの転換
もののけ姫のクライマックスで、シシ神はエボシ御前によって首を撃ち落とされてしまう。ジゴ坊たちはなんとかその首を持ち帰ろうとするが、首を追い求めるデイダラボッチ化したシシ神から逃げることが出来なくなる。それでもジゴ坊は首を死守するのだが、アシタカとサンによって首を返すように説得される。そこでアシタカが言った言葉が「人の手で返したい」である。
このアシタカの「人の手で返したい」という言葉こそが、ラストシーンの核心を表しています。アシタカが「人の手で返したい」というシーンの意味するところは「せめて、自分たちがしでかしたことだということを忘れないようにしよう!」という深い反省と決意が込められているのです。
シシ神の首を討つことで、清浄と恐れの両方が失われ、人間が自然を「管理すべきもの」とみなす時代への転換が起こる。これは単なる環境破壊ではなく、精神的・宗教的な価値観の大転換である。
宮崎監督が描いたのは、日本人が古来から持っていた自然への畏敬の念が失われる瞬間でした。「もののけ姫」は「神のかたち」が民衆レベルで人型に変わってしまった瞬間を描いた作品として理解することができます。
なぜシシ神の首が狙われたのか:不老不死伝説の背景
それはシシ神の血にどんな病も治ると言われていたことや、首に不老不死の力が宿っていると言われていたため。これらはあくまで噂や憶測でしかなく、実際にその力があったのかは不明。
おそらくシシ神が、足元から草を生やしたりして、「生」の力をばらまいている姿を見た人間が、「きっとシシ神の首には、もっと強い生の力があるはずだ。シシ神の首を手に入れれば不老不死になれるに違いない」と考えた。これが伝承として伝わったのではないでしょうか。
実際には、天朝は、師匠連を通じてエボシにシシ神退治を命じているわけだが、その理由が「シシ神の生首に不老不死の力がある」からだとほのめかす会話がエボシとジコ坊の間で行われる。この時代のすべてを手に入れているはずの天朝もまた死を恐れ、永遠の生を手に入れようとしているのだろう。
つまり、シシ神の首は人間の欲望と恐怖が生み出した幻想の産物だったのです。あらゆるモノを利用する、利用できるという考え方は、きわめて近代の人間らしいという気がします。
首を返すシーンで現れる「痣」の真の意味
アシタカとサンの体にできるアザは、シシ神の生命の力によるものという考察が、個人的に符に落ちました。エボシ御前が撃ち落とした首から出てくるドロドロの液体そのもののが、シシ神の生命のエネルギーではないかと言われているのです。
あのドロドロ自体が、シシ神の力そのものなので、首を撃ち落とされたことによる人間への憎しみや恨みが、代償(アザ)として出現したのでは、と考えます。そりゃ、シシ神も首を撃ち落とされたんだもん…怒るよね。最後には二人の体のアザは消えているので、シシ神は人間を憎しみ、恨んだものの、最終的には人間を許したのかもしれませんね。
この痣の出現と消失は、シシ神と人間の関係性の変化を表しています。最初は怒りと憎しみを表現していた痣が消えることで、シシ神の赦しと和解が象徴的に描かれているのです。
シシ神の真の正体:「生命そのもの」という存在
アシタカは最後に「シシ神さまは死にはしないよ。生命そのものだから。生と死とふたつとも持っているもの」という捉えをサンに伝える。
シシ神は、夜になるたびにデイダラボッチに姿を変えます。そして、朝になるとシシ神に戻るのです。つまりシシ神は、普段から毎日、誕生と死を繰り返す存在。シシ神が生、デイダラボッチが死です。このあたりの考え方は、日本古来の神話などで「夜は死の世界」とされているのに通じるものがありますね。
シシ神は『自然界そのもの』を現している存在だ。「もののけ」たちは神と呼ばれながらも、その命には寿命がある。乙事主にしても、サンの育ての親である犬神モロの君にしても、長い時間を生きていながらも劇中で命を落としている。反面、シシ神は死ぬことはない。劇中ラストでアシタカがサンに語っている通り、シシ神は生命そのもの、自然そのものであるため、命という営みがある限りその在り方がなくなるとうことはない。
森の再生に込められたメッセージ:原生林から雑木林への変化
森は最後に再生し始めます。しかし、実はそこまでの物語で描かれていた森とは様子が違います。元の森は原生林。つまり自然のままにできた森です。それに対して、最後で描かれる森は雑木林。人間の手によって管理された森ということになります。
この森の変化は非常に重要な意味を持っています。本作の大きなテーマのひとつは、「人間と自然の対立」でした。自然を敬い共生しようとする古来の人間たちと、自然への畏れを忘れて管理しようとする近代の人間たち。森の変化は、人間の変化を表していたのかもしれません。
またサンは再生した森を見て「ここはもうシシ神の森じゃない。シシ神さまは死んでしまった」と言うと、アシタカはシシ神は生命そのものだから死なないと返します。人間との共存のもとに森という命を繋いでいくことはできる、というメッセージが込められているのではないでしょうか。
SNSで話題となった深い考察や投稿の紹介
首を返すシーンは何度見ても鳥肌が立つ🤭#もののけ姫
多くのファンがこのシーンの神秘性と感動に心を打たれています。
『もののけ姫』シシ神は生も死をも与えるという情報を、足元の草木を咲かせて枯れさせるという描写だけで表現するのすごいよな…#もののけ姫 #金曜ロードショー
シシ神の本質を視覚的に表現した宮崎監督の演出力の高さを評価する声が多数見られます。
陽の光を浴びたシシ神の身体に触れると、生命力が蘇る ハンセン病もヤックルの矢の傷も そして死んだ森も#もののけ姫#金曜ロードSHOW
シシ神の治癒能力と生命力に注目した鋭い観察です。
アシタカ「シシ神よ―― 首をお返しする 鎮(しず)まりたまえ!」#もののけ姫 #金曜ロードショー
この公式アカウントの投稿からも、首を返すシーンが作品の最も重要な場面として位置づけられていることが分かります。
「生命の授与と奪取を行う神。新月の時に生まれ、月の満ち欠けと共に誕生と死を繰り返す」とされるシシ神。木立の如き角をもつ、ふしぎなけものです。 宮崎監督が作品イメージを伝えるために書いた詩の中には「森が生まれた時の記憶と おさな子の心を持つ」という一節があります🌿#もののけ姫
宮崎監督自身が書いた詩からも、シシ神の純粋性と原始的な生命力が読み取れます。
別の視点から見るラストシーンの意味:「生と死」の統合思想
シシ神がその足を一歩進めるたびに、大地から草木が生まれ、また死んでいく。このシーンの表現は何度見ても美しい。シシ神は生も死も司る存在として描かれる。そのシシ神は、エボシに石火矢の一発目を打ち込まれても穏やかな顔のままでいる。あの表情は「不死身だから」ということではなく「死を恐れていない」、もっと言えば「生と死が一体」の存在だからだと思う。
宮崎監督が伝えたかったメッセージの核心は、宮崎駿監督は、もののけ姫という作品を通じて「生と死を分けている限り、この世から争いも憎しみも無くならない」ということを伝えているのではないかと思う。というところにあります。
人の手が入らずに残されている森では、巨木が倒れ、朽ちていく過程でまた新たな生命が育まれている光景を目にすることができる。その光景を見ているとどこまでが「死」で、どこまでが「生」なのかわからない。「生」と「死」が分かれているのは、ただただ、僕たちの考えの上だけなのかもしれない。
現代への警告:環境問題とのつながり
『もののけ姫』の中で最も明確なテーマは「人間と自然の対立」です。エボシをはじめとするタタラ場の住民たちは、豊かになるために森を破壊しようとしており、それに対して怒っているのが森の神々やサンです。アシタカは自然と人間とが共に生きられないかと悩みますが、両者はついに戦いを始めてしまいます。この対立の中で、人間の欲望と自然の調和が描かれており、現代社会における環境問題への警鐘とも言えるでしょう。
日本においては縄文人が既に森林の伐採を行っており、日本における古代に消え去ってしまった動物層の最後のメンバーであるヤベオオツノジカとオオヤマネコもこの時代に絶滅したとされる。また、『もののけ姫』の事件が発生した室町時代には、本来の意味での原生林は既に日本から消えていたとされ、宮崎駿も「神話やファンタジーの世界が残っていた最後の時代」としている。
つまり、もののけ姫のラストシーンは現代の環境破壊への警告であり、同時に希望のメッセージでもあるのです。
コダマの再登場が示す希望:トトロとの繋がり
「チビで1匹でいいから、コダマがノコノコ歩いてるやつ、最後にいれてくれって。それがトトロに変化したって(笑)。耳が生えてたっていうの、どうですかね。そうすると首尾一貫するんだけど」と、『もののけ姫』のラストシーンのコダマが、『となりのトトロ』に繋がることを宮崎駿が語っています。
このコダマですが、後に『となりのトトロ』のトトロになるという噂が。長い年月をかけて再生した森で、コダマに耳が生えトトロになるということになります。不思議な話ですが、もののけ姫の舞台は今から約500〜600年前。白くて小さいトトロは109歳という設定があったため、確かに時系列的にはおかしくないのかもしれませんね。
最後に現れた一匹のコダマは、森の再生の象徴であると同時に、未来への希望を表しています。自然との共生への希望として、最後にコダマが佇むシーンを残してくれていたことも見逃してはいけないところなのでしょう。
シシ神の「死」と「再生」の真相
シシ神は、首を返した時点でデイダラボッチに戻ったのですが、朝日を浴びたことで肉体は消えてしまったのです。しかし、アシタカの言うように、シシ神は生命そのものなので、姿が変わっただけで存在はするのではないでしょうか?神様だから生きるとか死ぬとかの概念がないのかもね。めちゃくちゃになってしまった森に緑が復活したことが、その証拠。森の緑こそが、肉体が消えてしまった後のシシ神の姿なのだと考えます。
シシ神は首を落とされて一度死んだが、そもそも誕生と死を繰り返す存在なので、また蘇る可能性が高い。アシタカはシシ神を「生命そのもの」と表現したが、この考え方は日本古来の思想。シシ神の首には不老不死の力があるといわれているが、人間側が勝手に想像しただけ。
まとめ:宮崎駿が込めた普遍的メッセージ
もののけ姫のラストシーンは、単なる物語の終結ではなく、現代を生きる私たちへの深いメッセージが込められています。
アシタカが首を返すことで生じた奇跡(包帯の人々の癒し)は、「自分たちがしでかしたことだと忘れないこと」という意識がもたらす僅かな希望の証。宮崎監督のメッセージは「完全な正しさ」ではなく「自覚ある慎ましさ」にある。
ラストシーンは、自然を消費する現代の我々に重ねられつつも、サン(自然)との繋がりを持ち続けるアシタカの姿を通して、「矛盾を抱えながらも誠実に生きろ」という宮崎監督からのエールとして描かれている。
シシ神の首を返すという行為は、人間の傲慢さへの反省と、自然との和解への第一歩を象徴しています。森の再生は完全な復元ではなく、人間との共存を前提とした新しい形の自然の誕生を表現しているのです。
このシシ神の行動が物語っているのは、どちらか一方が生き残ればいいというものではなく、森も人も共に歩まなくてはいけないということだ。人間だけがいればいいというものではない、森だけがあればいいというものでもない。既に両者が存在しているのであれば、手を取り合って進んでいけ、最後のアシタカとサンの在り方がシシ神が伝えたかったことである。
現代の環境問題が深刻化する中、もののけ姫のラストシーンが持つメッセージは、ますます重要性を増しています。それは、自然への畏敬を失わず、人間と自然が共生する道を模索し続けることの大切さです。宮崎監督が描いたのは、完璧な解決策ではなく、矛盾を抱えながらも誠実に向き合い続ける姿勢の重要性だったのです。
ラストシーンで一匹だけ現れたコダマが示すように、希望は決して失われることはありません。シシ神の首を人の手で返すという行為に込められた「責任を忘れない」という意志こそが、未来への扉を開く鍵となっているのです。