宮崎駿監督の最高傑作とも言われる『もののけ姫』を観て、その圧倒的な映像美に心を奪われたことはありませんか?実は、この作品には日本アニメーション史上でも特別な意味を持つアニメーション技術が使われているのです。なぜタタリ神のあの複雑な動きが実現できたのか、なぜあれほど奥行きのある森の描写が可能だったのか、その制作技法の秘密を知りたいと思いませんか?この記事では、『もののけ姫』で使われた革新的なアニメーション技術と制作技法について、制作現場の裏話も交えながら詳しく解説していきます。
もののけ姫が「最後のセルアニメ」と言われる理由
『もののけ姫』製作時は、ちょうどアニメーションの製作がアナログからデジタルへと本格的に移行し始めていた時期にあたり、本作では一部でCG技術を導入しつつ、透明なシートを使ってセル画に直接色をペイントしていくというセルアニメーションの技法を使用した最後のジブリアニメとなった。
『もののけ姫』は、アニメーション制作史において極めて重要な位置を占めています。本作はセルアニメーションの最後の到達点とも呼ばれ、同時にデジタル技術導入の先駆けでもある、まさに制作技法の転換点に位置する作品なのです。
長編アニメーション映画では1997年公開の『もののけ姫』などが3DCG描画と融合する一部分のシーンにおいてデジタル彩色による制作を取り入れている。この事実が示すように、本作は伝統的なセルアニメ技法と最新のデジタル技術を巧妙に組み合わせた、ハイブリッド作品として制作されました。
セルアニメーションとは何か
セルアニメ(Cel animation、セルアニメーション)は、セル画を用いて制作されるアニメーション。または、その制作手法のこと。セル画に使用される透明なシートの素材がセルロイドであったことに由来する。
セルアニメーションは、透明なシート(セル)に描かれたキャラクターを背景画の上に重ねて撮影する技法です。この手法により、キャラクターと背景を分離して効率的にアニメーションを制作することが可能になりました。
デジタル制作が普及する以前は、この手法が標準的であったため、かつて多くのアニメーション映画やテレビアニメがこの手法によって制作された。『もののけ姫』は、この伝統技法を極限まで昇華させた最後の大作だったのです。
マルチプレーンカメラ技法による奥行き表現の革新
『もののけ姫』の映像で最も印象的な要素の一つが、森の奥深さを感じさせる圧倒的な奥行き表現です。これは「マルチプレーンカメラ」という特殊技法によって実現されました。
マルチプレーンカメラの仕組み
マルチプレーン・カメラ(Multiplane camera)は、セルアニメの制作で使用された特殊な映画撮影用のカメラである。たくさんのセル画をそれぞれ異なった距離に配置し撮影するシステムである。被写界深度の関係でカメラに近いセル画にフォーカスを合わせると、カメラから遠い背景画やセル画はフォーカスが合わない状態になり、遠くのものほどかすんで見える空気遠近法に似た奥行きのある表現を生み出す。
通常の撮影は下を覗き込むカメラの下にある台はひとつである。それに対しマルチプレーンはひとつの台でなく、棚のように何段もガラスがはめられた台がしつらえられ、段と段の間には距離があり、その距離間は随意に変えられる。
この技法により、『もののけ姫』では実写映画のような立体的な映像が実現されました。
『もののけ姫』での具体的な活用例
序盤、主人公・アシタカが相棒のアカシシ、ヤックルを連れ故郷の村を離れ西国へ向かう旅をしている場面では一番手前にピントがぼけている岩、二番目にアシタカがヤックルに乗って道を進む姿、その奥に山が2層あり、空には霧が立ち込めており、その奥にも雲が描かれている。
この技法的工夫により、観客はアシタカの旅路の壮大さと自然の雄大さを直感的に感じ取ることができるのです。
『もののけ姫』では自然が大きなテーマとなっているのでこのような自然の風景が細かく丁寧に描写されている。奥行きを演出することで登場人物の置かれている状況の過酷さを表現している。
マルチプレーンカメラ技法の制作上の困難
このマルチプレーン撮影台を使うときは、画を置く台ごとに一人ずつ担当が付き、ライティングやカメラの担当者を合わせると、7~10人くらいの人数が必要だったとか。また、撮影の準備は1日がかりで、撮影にも通常の数倍の時間が掛かったそうです。
この証言からも分かるように、マルチプレーンカメラ技法は膨大な人的コストと時間を要する極めて困難な技法でした。しかし、その労力に見合う圧倒的な映像美が『もののけ姫』で実現されたのです。
タタリ神シーン:手描きとCGの驚異的な融合
『もののけ姫』で最も話題となった技法の一つが、冒頭のタタリ神シーンでの手描きとCGの融合です。多くの人がCGで作られたと思っているこのシーンに、実は驚くべき秘密があります。
当初の計画とその挫折
当初は、タタリヘビの集合体はすべてCGで描くことも考えていたようですが、当時はまだCGが出始めて間もない頃で、技術の蓄積もありませんでした。あれやこれやと思考錯誤をし、テスト映像を作ってある一定のところまでは行ったものの、宮崎駿監督を満足させるものにはなりません。
実際にテスト映像を作ってジブリ内部で検討したところ、宮崎監督が「ダメだ!こんなもの使えない!」と却下。理由は、当時のCG技術が不十分で、タタリ神のグネグネした複雑な動きをリアルに再現できなかったこと。もう一つは、3秒の映像を作るのに3か月かかるなど「制作に時間がかかり過ぎる」ということでした。
この証言は、当時のCG技術の限界と、宮崎監督の妥協を許さない姿勢を物語っています。
手描きという選択がもたらした革新
デジタル作画でタタリヘビを表現するのは、あまりに時間がかかることが分かった宮崎監督は、手描きで作画イン。CG部の頑張りもあって、数カットは採用されていますが、タタリ神の大部分は手描きで描かれています。
この決断により、前例のない複雑な手描きアニメーションが誕生しました。結果として、CGでは表現できない有機的な生命感を持った映像が実現されたのです。
制作現場での苦労
なお、このシーンの原画を担当した笹木信作さんは「宮崎監督の意図する”勢い”とか、生物感のようなものを表現するのが難しかった。常に”これでいいのか?”という不安との闘いだった」とコメント。また、動画を担当した鶴岡耕次郎さんは「どうしても変なクセが出てしまい、インスタントラーメンみたいな形になってしまった。描いているうちに何が正解かわからなくなり、どんどん泥沼にはまっていった」とのこと。
ちなみに『もののけ姫』の制作中、ジブリではほとんどのアニメーターがこのシーンを担当することを嫌がり、「仕事が遅いやつはタタリ神を描かせるぞ!」と”罰ゲーム”みたいな扱いになっていたそうです。
これらの証言からも、タタリ神シーンの制作がいかに困難を極めたかが分かります。しかし、その困難を乗り越えて生まれた映像は、アニメーション史上に残る傑作となったのです。
セルアニメーション技法の集大成としての職人芸
『もののけ姫』は、セルアニメーション技法の最終到達点として、数々の職人的な技法が集約された作品です。
複数部署の完璧な連携
このセルを使った手法は、長らく世界のアニメ製作の主流であり、日本でもこの製作環境のもとで様々な演出技法が発明された歴史の積み重ねがある。『もののけ姫』では、アナログ的な手法では表現し得ないような複雑な構成のシーンを、複数のスタッフによって描かれた絵をレイヤーとして重ね、個別に緻密なスピード計算をしながら、監督の意図通りに実際にカメラで撮影していくという、各部署の連携が完璧にとれていなければ達成できない職人芸で支えられている。
この証言が示すように、『もののけ姫』の制作は極めて高度な技術的統合によって実現されました。
手作りフィルターの活用
また、カメラに付けるレンズフィルター以外にもガラスに油や透明絵具で絵を描いたり、セル画に紙やすりで傷をつけるといった手作りのフィルターを使用できる。
撮影時に透過光と組み合わせ、ファンタジックなシーンや自然現象などの表現に使う事ができるため、撮影スタッフもフィルター効果をいろいろと研究したそうです。
これらの手作業による特殊効果が、デジタル技術では表現できない温かみを『もののけ姫』の映像に与えているのです。
キャラクターの色彩設計における革新的アプローチ
『もののけ姫』のアニメーション技術で特筆すべきは、色彩による物語表現の革新性です。
主要人物の色彩戦略
『もののけ姫』の主要人物である、アシタカ、サン、エボシ、ジコ坊は他のキャラクターに比べ赤や青など鮮やかな色が使われており、より目立っている。劇中で、血の色やサンの頬の入れ墨やお面、ジコ坊や手下の頭巾や服など、特に赤が協調して使われている。
この色彩設計により、観客は自然に重要なキャラクターに注意を向けることができます。同時に、赤という色は生命力と暴力性の両面を象徴し、物語のテーマを視覚的に表現しています。
善悪二元論を超越した色彩表現
私が印象に残っているのは、ディズニー映画のように、「主人公は明るい色、悪役は暗い色」というはっきりとした対立が、『もののけ姫』には適用されていないことだ。私はそもそも、この『もののけ姫』には悪役は存在していないと感じている。
この色彩設計の選択により、『もののけ姫』は複雑な現実世界の価値観を反映し、単純な勧善懲悪を超越した深い物語表現を実現しています。
動きの表現における技法的工夫
『もののけ姫』では、キャラクターの動きにも独特の技法的工夫が施されています。
また、この作品では、ヤックルや山犬、牛、イノシシの大群などが疾走する場面が数多く登場する。そこでもまたマルチプレーンカメラが使われている。
これらの疾走シーンでは、マルチプレーンカメラ技法により圧倒的なスピード感と臨場感が表現されています。動物たちの群れが画面を駆け抜ける様子は、観客に自然の野生的な力強さを直接的に伝える効果を持っています。
制作現場のドキュメンタリーから見える技法の実際
『もののけ姫』の制作技法を理解する上で貴重な資料が、制作過程を記録したドキュメンタリー映像です。
約2年間の月日をかけて『もののけ姫』制作のすべてに密着し、映像とインタビューでまとめた完全記録映像。作品の構想からストーリーボード作成、気の遠くなるようなアニメーション制作の現場にカメラが潜入した「第1章:紙の上のドラマ」、型破りな宣伝と興行戦略の舞台裏にせまる「第2章:生命が吹きこまれた!」、アフレコスタジオで役者魂を見せる声優陣の素顔と、彼らに高度な要求をする宮崎監督とのやり取り、そして、公開後に社会現象と化した「もののけ旋風」などを余すことなく記録した「第3章:記録を超えた日」で構成されている。
このドキュメンタリーは、アニメーション制作の全過程を記録した貴重な資料として、制作技法の研究に欠かせない存在となっています。
『もののけ姫』の技術は、まさに「職人の魂」そのものだった。一つのカットを完成させるために、何十人ものスタッフが数ヶ月かけて作業する。そんな時代だったからこそ、あの奇跡的な映像美が生まれたのだ。
CGでは表現できない「命の躍動感」を、手描きだけで実現する。それが宮崎監督の求めた表現だった。技術的には非常に困難だったが、結果として誰も見たことのない映像が生まれた。
『もののけ姫』のマルチプレーンカメラ技法は、現在のCG技術でも再現が困難な表現を実現していた。それは「手作業だからこそ生まれる温かみ」があったからだ。
タタリ神のシーンは、アニメーターたちの地獄の作業だった。しかし、その苦労が報われる素晴らしい映像が完成した時の感動は忘れられない。
『もののけ姫』は「最後のセルアニメ」と言われるが、実際はセルアニメとデジタル技術の完璧な融合作品だった。この技法的な挑戦があったからこそ、後のジブリ作品の進化があった。
アニメーション史における『もののけ姫』の位置づけ
『もののけ姫』は、単なる一つの作品を超えて、アニメーション技術の転換点としての歴史的意義を持っています。
セルアニメーションの最高到達点
いまとなっては神業といえる作業の積み重ねは、セルによるアニメーション表現の歴史における、ある意味集大成といえるものになっている。
この評価が示すように、『もののけ姫』は数十年にわたって培われてきたセルアニメーション技法の集大成として位置づけられています。
デジタル技術との融合の先駆け
同時に、本作はデジタル技術導入の先駆的作品でもあります。完全にアナログでもなく、完全にデジタルでもない、ハイブリッドな制作手法により、従来では不可能だった表現を実現しました。
国際的評価と影響
アニメの立ち位置を、ただファンが消費するものから、学者や批評家たちが批評するに値する「芸術」へと変える礎を築いた作品として広く認められている。また、日本のアニメーション映画が国際的に大きな注目を浴びるきっかけとなった作品である。
この国際的評価は、『もののけ姫』の技法的革新性が世界に認められた証拠でもあります。
現代への技法的影響と継承
『もののけ姫』で確立された技法は、現代のアニメーション制作にも大きな影響を与え続けています。
手描きアニメーションの価値の再認識
デジタル全盛の現代において、『もののけ姫』の手描き技法は手作業でしか表現できない価値を改めて示しました。多くのスタジオが、効率性だけでなく表現力の質を重視するようになったのは、本作の影響が大きいとされています。
マルチプレーンカメラ技法のデジタル応用
現代のCGアニメーションでも、『もののけ姫』で使われた奥行き表現の考え方は継承されています。デジタル技術により、より効率的に同様の表現効果を実現する手法が開発されているのです。
まとめ:アニメーション技術の革新と継承
『もののけ姫』のアニメーション技術は、伝統と革新の完璧な融合として、アニメーション史上に永遠に輝き続ける傑作です。セルアニメーション技法の最高到達点でありながら、同時にデジタル技術導入の先駆者でもある本作は、制作技法の面でも多くの教訓を与えてくれます。
タタリ神の手描きによる複雑な表現、マルチプレーンカメラによる奥行きある映像、色彩による物語表現など、すべてが職人的な技術と芸術的な感性の結晶として結実しています。現代のデジタル全盛時代だからこそ、改めて『もののけ姫』の制作技法から学ぶべきことは多いのではないでしょうか。
今回、『もののけ姫』を鑑賞して、キャラクターの動きや言動、背景の描写一つ一つに意味があって、それが物語を構成していくということに改めて気づかされた。この感想が示すように、『もののけ姫』の技法的完成度は、観客に深い感動をもたらす原動力となっているのです。
アニメーション制作に携わる人々にとって、『もののけ姫』は技術的な目標であり続ける作品です。そして一般の観客にとっても、この技法的背景を知ることで、作品をより深く理解し、より大きな感動を得ることができるでしょう。『もののけ姫』のアニメーション技術は、まさに日本アニメーションの誇りある遺産なのです。