「もののけ姫」に登場する謎めいた存在、猩々(しょうじょう)について深く知りたいと思いませんか?「人間食う」という衝撃的なセリフで印象に残る彼らですが、実は「森の賢者」と呼ばれる深い意味を持つ存在です。この記事では、猩々の正体から古代中国の伝説的背景、そして宮崎駿監督が込めた現代への警告メッセージまで、あらゆる角度から徹底的に解説いたします。
もののけ姫の猩々(しょうじょう)の正体:森の賢者たる猿の神
『もののけ姫』に登場する猩々も、サンに向かって片言の言葉を話していました。しかし、森を守ろうとする「森の賢者」としての一面も持っています。
猩々(しょうじょう)は、ニホンザルより大型の霊長類で、森の賢者で下位級の神だそうです。彼らは単なる動物ではなく、もののけとしての神格化された存在として描かれています。
猩々の外見的特徴と能力
中国では体毛が赤いオラウータンを猩々と呼んでいますが、『もののけ姫』の猩々の体毛は赤くなく、猿というよりゴリラに近い外見をしています。猩々は暗闇で目を赤く光らせるのが特徴で、森を破壊する人間に対して大きな恨みを持っています。またカタコトではありますが、言葉も話すことができるのが特徴です。
作品中での猩々の重要な能力として以下が挙げられます:
- 言語能力:片言ながら人語を理解し、話すことができる
- 植林技術:森の再生のために木を植える知識と技術を持つ
- 夜間活動:暗闇の中で赤い目を光らせて活動する
- 集団行動:複数頭で群れを成して行動する
「森の賢者」としての使命と挫折
実は猩々たちは善の行いとして、人間たちが崩した森を取り戻すため、夜ごと崩された斜面に集まって木を植えようとしています。一生懸命森を取り戻すために木を植える活動をしていて立派なのに、まだ道理を十分に理解していない段階ということだからか、山犬からは「猿ども」と言われてしまいます。
しかし、人間による森林破壊の進行に対して、彼らの努力は追いつかない状況でした。猩々たちは「木 植えた」「木植え」「木植えた」「みな人間抜く」「森戻らない」「人間 殺したい」と語り、その絶望的な状況を表現しています。
猩々の語源と歴史的背景:中国古代の伝説から日本への伝来
中国古代における猩々の記録
猩々についての初めての記録は、中国で3世紀に書かれた「礼記(曲礼の篇)」という書物に記されています。そこに書かれていることは、猩々は喋ることができても、結局は動物でしかないということです。つまり、いくら弁舌が達者であっても、心は動物のレベルだと主張しています。また別の文献では、「酒好き」として描かれていることもありました。
中国の伝説上の動物。または、それを題材にした能楽などにおける演目。さらにそこから転じて、大酒家や赤いものを指すこともある。
オランウータンとの関連性
現在では一般に南方に生息するオランウータンを指すが,中国の古典等に現れる猩猩は想像的要素が強く,姿の形容もさまざまである。オランウータンというのは〈森の人〉を意味するマレー語で,彼らの生息地はこの2島の熱帯降雨林に限られている。
興味深いことに、かつてはショウジョウ科(猩々科の意)とも呼ばれた。このように、現代の生物学においてもオランウータン科は猩々科と呼ばれ、古代の伝説と現実の動物が結びついています。
日本文化への浸透と能楽での昇華
猩々は想像上の動物だが、辞書を引いてみると「オランウータンの別名」とも記述されている。しかし、中国には野生のオランウータンは存在していない。これは後から結びつけられた言葉のようだ。日本でも想像上の動物として伝来していたが、室町後期になると能の演目に猩々が取り入れられた。能の中では、”親孝行息子にいくら汲んでも尽きることがない酒壷を与える福神”として猩々が描かれているんです。このイメージが広がって、明るいキャラクター、陽気な酒の神様として定着したみたいですね
「人間食う」セリフの真意:絶望と復讐への転落
猩々とサンの重要な対話シーン
作品中で最も印象的な猩々のシーンは、負傷したアシタカを巡ってサンと猩々が対峙する場面です。以下が実際の対話です:
山犬「猩々ども!われらがモロの一族と知っての無礼か?!」猩たち「ここはわれらの森。その人間よこせ。人間よこしてさっさと行け」山犬「うせろ!!わが牙がとどかぬうちに!」猩たち「行け 行け」「オレたち人間くう。」「その人間くう」「その人間くわせろ」サン「猩々達!森の賢者とたたえられるあなたたちがなぜ人間など喰おうというのか?」猩々たち「人間やっつける力ほしい、だからくう」
「人間を食べる」という発想の背景
「人間食う」とは、「人間を食べて人間を倒す力がほしい」という意味でしょう。これは単なる野蛮性ではなく、追い詰められた猩々たちの絶望的な発想転換でした。
猩々たちは、日常的に森を破壊され、生活の場を脅かされる中で、自分たちの存在意義すら奪われるかもしれないという危機感を抱いています。このように彼らが「人間食う」と言い放つ背景には、人間に対する単純な敵意だけでなく、自らの無力さに対する苛立ちや失望、そして恐怖が渦巻いています。
森の生態系における猩々の役割と階層構造
もののけ世界の社会的階層
森に棲む"もののけ"たちは他の種族の"もののけ"を敬いながらも、その種族との上下関係はあるようです。モロ率いる山犬の一族とのやりとりから察するに、猩々はその中ではあまり高い地位ではないように感じられます。
しかし、地位は低くとも重要な役割を担っていました:
役割 | 具体的内容 | 重要度 |
---|---|---|
森の再生 | 荒らされた土地への植樹活動 | 最重要 |
生態系維持 | 針葉樹と広葉樹のバランス調整 | 高 |
土壌管理 | 植える場所の土質や日当たり考慮 | 高 |
森の番人 | 侵入者に対する警戒活動 | 中 |
猩々の一族は森を知り尽くした賢者なのではないでしょうか。森を維持するのに欠かせない存在なんだね。
植林技術の高度性
【もののけ姫】の猩々は森に木を植える知識と技術を持った猿の神様。ただ木を植えるだけではなく、針葉樹と広葉樹のバランス、植える場所の土質、日当たりなどひとつの森を全体的に捉える力が必要とされそうですよね。
環境破壊への警告:現代社会への深いメッセージ
自然破壊の象徴的描写
猩々は、自然破壊の被害をその身で象徴する存在として登場しています。かつて「森の賢者」と称され、豊かな森を守り続けた彼らは、人間の進出と自然破壊の進行により自らのアイデンティティを崩されていきました。その結果、猩々たちは人間を「敵」とみなし、森を守るために戦わざるを得ない立場に追いやられたのです。
宮崎駿監督からのメッセージ
猩々のセリフが伝えたいのは、自然破壊が進んでいる現代社会に向けたメッセージではないかと思われます。森を育てようといくら木を植えても次から次へと人間が破壊する。現在の人間世界の繁栄は、山や森に住む動物たちの犠牲の上に成り立っているものとし、地球温暖化など自然災害は自業自得。
もののけ姫を手掛ける宮崎駿監督は、ジブリに意味や想いをよく込められます。従って、猩々たちのセリフに込められた意味とは、きっと「自然を破壊する現代の人間たちに向けたメッセージ」でもあるのではないでしょうか?
SNS・Web上での猩々に関する話題と反響
ネット上では猩々について様々な議論や感想が共有されています。
『もののけ姫』の猩猩と七福神 中国から日本に伝わった猩猩(しょうじょう)という霊獣がいる。『もののけ姫』の作中に登場する。ジブリの公式画像に猩猩の場面カットがなく残念。赤い目、ゴリラのような大きい山猿でアシタカを助けるサンに石を投げ「オレタチ、ニンゲン、クウ」。確かそんな感じ。
引用:Twitter
この投稿では、猩々の印象的なセリフとその不気味さが端的に表現されています。ファンの間でも「人間食う」というセリフは強烈な印象を残しているようです。
もののけ姫やってるけど所々セリフが好きなんよなー笑笑 猩々の「人間食う 人間の力もらう 人間やっつける力ほしい」も好きだし山犬がヤックル見ながら「あいつは?食べていい?」のところも好きだしwww こだまのおしりはプリけつやしwwwww
引用:Twitter
このように、猩々のセリフは怖さと同時に、その率直さや必死さが多くの視聴者に印象を残しています。
これからやばい野良を猩々(しょうじょう、オラウータンの和名)と呼ぶことにする。もののけ姫の中で人間に負けて追いやられて、人間食べようとする方々ね。本来は神々らしいけど…
引用:Twitter
現代の社会問題と絡めて猩々を解釈する視点も見られ、作品の普遍的なメッセージ性が現代にも通じていることがわかります。
声優と演技:名古屋章による猩々の表現
猩々の声を担当されたのは名古屋 章(なごや あきら)さんです。『もののけ姫』では牛飼いの頭の役も担当されています。とてもベテランの俳優・声優さんで、昭和から平成にかけて映画やテレビドラマで大活躍されました。
名古屋章さんの低く重厚な声は、猩々たちの絶望感と怒りを見事に表現しており、「人間食う」というセリフの恐ろしさを際立たせています。2003年に肺炎でお亡くなりになるまでずっと現役で活躍されました。『もののけ姫』は隅々まで素晴らしい声優さんが参加されていることがわかりますね。
森の復興と希望:猩々の真の願い
植樹活動への献身
猩々は本来、自分たちが生きていくために木々を繁栄させて森を守ってきました。こうした姿を見て森の住人たちは、彼らを尊敬していたのです。しかし人間によって森を荒らされてしまったことから、卑屈な性格へと変化してしまったのでしょう。そして人間の力までも手に入れたいと思うようになったのかもしれません。
エボシとアシタカが石火矢製造所で会話するシーンでは、猩々たちが禿山に戻って木を植える姿が描かれています。これは彼らの本質的な使命が森の再生であることを示しています。
環境破壊によるアイデンティティの喪失
猩々たちは、かつて「森の賢者」として崇められ、森の守護者として誇り高く生きてきました。しかし、人間による森林伐採が進む中で、森を守り続けようとする彼らの姿勢は他の森の生き物たちからも距離を置かれるようになり、孤立感が深まっていきます。この孤立感は、彼らにとっての苦痛であると同時に、森を守るためには一人でも戦わねばならないという強い自負心にもつながっています。
猩々が現代社会に投げかける問い
文明と自然の対立構造
猩々の存在は、文明の進歩と自然保護の根深い対立を象徴しています。かつて住んでいた豊な自然であった森の住処を奪われ、人間を憎み、妬み、嫉妬してしまった結果、森の賢者では無くなってしまった猩々は、人間を滅ぼすことを決意しました。そのためには、人間と同等の力を手に入れなければなりません。
追い詰められた存在の心理
猩々たちも決して、好んで人間を食べようとなんて思ってもいないと思います。追い詰められたからこそ、人間に敵対するため、知恵を絞りだした結果として、人間を喰らうことを考えたのでしょうね。
この描写は、環境破壊によって生存を脅かされた野生動物が、最後の手段として人間と対峙せざるを得なくなる現実と重なります。
他の妖怪・霊獣との比較:ヒバゴンとの類似性
『もののけ姫』に登場する猩々と、日本で未確認生物として話題を呼んだ「ヒバゴン」には、興味深い共通点がいくつか見られます。猩々はオランウータンのような大柄で厚い毛に覆われた姿で描かれ、強い存在感と威圧感を持っています。同様に、ヒバゴンも1970年代に広島県で目撃され、大きく毛深い外見が報告されました。
両者には環境保護の警告者としての共通点があります。ヒバゴンが目撃された広島県では、同時期に森林が大規模に伐採されており、その出現は自然破壊に対する警鐘と解釈されることもあります。こうした類似点は、猩々とヒバゴンがともに環境保護の重要性を示し、人間に自然との共存を考えさせる象徴的な存在であることを示しています。
作品における猩々の意義と教訓
負の感情が招く堕落
かつては「森の賢者」と謳われた"もののけ"猩々について、いかがでしたでしょうか。どんなに賢いものであっても、環境で変わってしまうことはよくあること。正しい行動もある時すべて意味がなかったのではないか?と猩々たちは卑屈になったのでしょう。そして、自分達を支えてくれた存在にまで攻撃的になってしまう心情は、ある意味とても人間的で共感してしまいますよね。
森の生態系バランスの重要性
完璧な世界であるように見える森は、よい環境の上に成り立っている。そして、負の刺激によってその完璧なバランスは揺らいでしまう、ということを猩々たちから感じます。
まとめ:森の賢者から見た人間への警告
『もののけ姫』の猩々は、単なる敵役ではなく、環境破壊によってアイデンティティを奪われ、絶望の淵に立たされた「森の賢者」です。彼らの「人間食う」という衝撃的なセリフは、自然と人間の共存が破綻した時に起こりうる悲劇的な結末を暗示しています。
猩々は古代中国から伝わってきた伝説の生き物でした。当初はあまり良い印象を持たれていない存在でしたが、能の演目をきっかけに親しみやすい神、妖怪として知られるようになります。そんな猩々は『もののけ姫』において、「森の賢者」という新たな一面を加えることで、独自の脚色がされました。
現代社会において、私たちは猩々のメッセージを真摯に受け止める必要があります。森林破壊、地球温暖化、生物多様性の損失など、環境問題は今も深刻化を続けています。かつて森の賢者であった猩々が人間を敵視するまでに追い詰められた状況は、決して架空の物語ではなく、現実の警告なのです。
宮崎駿監督が猩々に込めたメッセージは明確です。人間は自然との調和を取り戻し、真の共存の道を見つけなければならない。そうでなければ、森の賢者たちの怒りと絶望は、やがて私たち人間自身に向けられることになるでしょう。
『もののけ姫』を通して、私たちは自然環境への責任と、未来世代への義務について深く考える機会を得ています。猩々という存在は、その重要な気づきを与えてくれる貴重な存在なのです。