火垂るの墓情報

火垂るの墓の摩耶は実在する軍艦?神戸との関係と聖地巡礼の舞台を徹底解説!

火垂るの墓の摩耶は実在する軍艦?神戸との関係と聖地巡礼の舞台を徹底解説! 火垂るの墓情報
火垂るの墓の摩耶は実在する軍艦?神戸との関係と聖地巡礼の舞台を徹底解説!

火垂るの墓に登場する軍艦「摩耶」とは?清太の父が乗艦した実在の重巡洋艦

アニメ映画「火垂るの墓」を語る上で欠かせないのが、清太の父親が乗艦していたとされる軍艦「摩耶」の存在です。この軍艦は単なるフィクションではなく、実際に大日本帝国海軍に存在した高雄型重巡洋艦の3番艦として歴史に名を刻んでいます。

野坂昭如の小説『火垂るの墓』では、主人公の清太の父が1935年(昭和10年)頃に摩耶に乗り組んでいたと設定されている。この設定はスタジオジブリのアニメ映画(高畑勲監督)でも踏襲されている。

摩耶という軍艦が火垂るの墓という物語においてどのような意味を持つのか、そして神戸という舞台との密接な関係について詳しく探っていきましょう。

摩耶の名前の由来と神戸との深い繋がり

命名元になった摩耶山の天上寺の山門付近に「軍艦摩耶之碑」が建てられているのです。摩耶は神戸市灘区に聳える摩耶山からその名を取っており、まさに神戸生まれ神戸育ちの軍艦だったと言えます。

作中に登場する「摩耶」は、神戸造船所生まれ、神戸市内の山である摩耶山の名前を命名された生粋の”神戸っ子”であるという事実は、火垂るの墓の舞台設定と深く結びついています。

項目 詳細
艦名の由来 神戸市灘区の摩耶山
建造場所 川崎造船所(現川崎重工業)神戸造船所
竣工年 1932年(昭和7年)6月30日
艦種 高雄型重巡洋艦3番艦
沈没 1944年(昭和19年)10月23日レイテ海戦

観艦式の真実―史実との矛盾と制作秘話

火垂るの墓で最も印象的なシーンの一つが、清太の記憶に蘇る神戸港での観艦式です。しかし、この場面には史実との重大な矛盾が含まれています。

大阪湾における観艦式は1936年(昭和11年)10月に行われ、神戸では歓迎のために原作やアニメで描かれたような電飾もなされたが、観艦式そのものは夜間ではなく昼間に行われたものであり、また「摩耶」は参加していないのです。

なぜ摩耶は観艦式に参加していなかったのか

11年の観艦式に参加した重巡は『古鷹』『青葉』『衣笠』『妙高』『那智』『足柄』『愛宕』『鳥海』で、『摩耶』の名前はどこを見てもありません。この史実は、物語の設定に疑問を投げかけます。

実際の観艦式参加艦一覧を見ると:

  • 重巡洋艦「古鷹」「青葉」「衣笠」
  • 重巡洋艦「妙高」「那智」「足柄」
  • 重巡洋艦「愛宕」「鳥海」

これらの艦は参加していたものの、摩耶の名前は記録されていません。

庵野秀明による精密な摩耶の作画

作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦「摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写することを求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗り潰され、庵野の努力は徒労に終わったのです。

後に「新世紀エヴァンゲリオン」の監督として名を馳せる庵野秀明が、摩耶の細部まで精密に描いていたという事実は、制作陣の作品への真摯な姿勢を物語っています。

摩耶の実際の航跡と清太の父の運命

実在の軍艦摩耶は、1944年10月23日のレイテ海戦で沈没しました。この事実は、清太の父親の運命を暗示しています。

史実通りだと1944年10月23日に米軍の潜水艦の雷撃により撃沈しています。その後、副長以下769名が救助され戦艦武蔵に移乗しています。しかし、その戦艦武蔵も撃沈され救助された「摩耶」の乗組員戦死70名、行方不明43名の被害が出てたという記録が残っています。

軍機密保持と家族への影響

軍艦の撃沈は秘匿されていたからです。撃沈された乗組員は一時、内地で隔離収容された後に、玉砕必至の陸戦隊員として再配置されたのです。ですから、当然消息を鎮守府に問い合わせても軍機密事項で梨の礫だったのです。

これにより、清太が父親に手紙を出しても返事が来なかった理由が説明できます。軍の機密保持政策により、家族には艦の沈没や乗組員の運命が知らされることがなかったのです。

神戸の摩耶関連聖地巡礼スポット

火垂るの墓と摩耶の関係を辿る聖地巡礼では、以下のスポットを訪れることをお勧めします:

摩耶山・掬星台

摩耶という艦名の由来となった神戸のシンボル的存在です。掬星台からは神戸港を一望でき、かつて摩耶が建造された神戸造船所方面も見渡せます。

神戸港

摩耶が建造された川崎造船所があった場所で、現在も造船業の拠点として機能しています。観艦式の舞台となった大阪湾の入口部分にあたります。

摩耶埠頭

摩耶の名を冠した埠頭で、現在は物流の拠点として使用されています。軍艦摩耶との直接的な関係はありませんが、名前のつながりから聖地巡礼者が訪れることがあります。

軍艦摩耶之碑(摩耶山天上寺)

命名元になった摩耶山の天上寺の山門付近に「軍艦摩耶之碑」が建てられていることから、摩耶を偲ぶ重要なスポットとなっています。

SNSで話題の摩耶関連投稿と考察

SNSでは火垂るの墓の摩耶について様々な議論が展開されています:

「火垂るの墓で一番好きなシーンはやはり摩耶様の観艦式ですね」

このような投稿は、軍艦の擬人化ゲーム「艦隊これくしょん」の影響で摩耶に親しみを感じるファンが増えていることを示しています。

「映画の時系列は20年5月 重巡摩耶、昭和19年10月にレイテ沖海戦で沈没してるので父親は最初から仏になっているのでは!!!」

史実に詳しいファンからは、時系列の矛盾を指摘する声も上がっています。

「清太が父親に手紙を送ったのは呉鎮守府 摩耶は横須賀なのでそら届かん」

このような細かな軍事的知識に基づく考察も、作品への理解を深める要素として注目されています。

摩耶が象徴する戦争の現実

火垂るの墓における摩耶の存在は、単なる背景設定を超えた深い意味を持っています。神戸で生まれ育った軍艦が、遠い海で沈没し、その乗組員の家族が神戸で戦災に遭うという構造は、戦争の残酷さを象徴的に表現しています。

海軍士官である父親の階級は原作では重巡洋艦「摩耶」に乗艦する海軍大尉とされている。こうした高級士官の遺族は生活に充分な恩給が受けられ、さらに戦死等で身寄りを失い孤児となった場合でも、海軍義済会における伝手によって身柄が捜索され、保護委託となることが多かったにもかかわらず、清太と節子は悲劇的な結末を迎えます。

軍の階級制度と社会の矛盾

海軍の遺族会は「将校の遺族がこんな扱いを受けることはありえない」として、原作者である野坂に抗議文を送ったと言われているという事実は、当時の軍の階級制度と実際の戦時下の混乱との間にある矛盾を浮き彫りにしています。

摩耶と神戸空襲の時期的関係

摩耶の沈没時期と神戸大空襲の時期を照らし合わせると、興味深い事実が浮かび上がります:

出来事 日付 影響
摩耶沈没 1944年10月23日 清太の父が行方不明に
神戸大空襲 1945年6月5日 清太・節子の母が死亡
物語の時期 1945年夏 兄妹の悲劇が展開

この時系列から、摩耶沈没から約8ヶ月後に神戸大空襲が発生していることがわかります。もし軍機密の壁がなければ、清太の家族は父親の戦死を知った上で空襲に備えることができたかもしれません。

現代に継承される摩耶の記憶

現在、摩耶の記憶は様々な形で継承されています。神戸市灘区六甲山地にある標高702mの山。「摩耶」は神戸の川崎造船所で建造された、「火垂るの墓」の舞台は神戸、と神戸に縁が深い軍艦として、地域の歴史教育や平和学習の材料として活用されています。

聖地巡礼における摩耶の意義

「火垂るの墓」ゆかりの場所を巡る「火垂るの墓を歩く会」が21日、神戸市東灘区などであった。参加者15人が、御影公会堂(同区御影石町4)など小説やアニメ映画で描かれた場所を歩き、戦争の面影をたどったように、定期的に開催される聖地巡礼イベントでも摩耶の存在は重要な要素として扱われています。

神戸市の市民団体が、戦争を忘れないように毎年夏になると火垂るの墓の聖地巡りをされていますという活動は、摩耶という軍艦の記憶を通じて平和の大切さを伝える貴重な機会となっています。

まとめ:摩耶が繋ぐ神戸と火垂るの墓の深い絆

軍艦摩耶は、火垂るの墓という物語において単なる小道具を超えた重要な意味を持つ存在です。神戸で生まれ、神戸の山から名前を取り、神戸の家族を支え、そして遠い海で沈んだこの軍艦の物語は、戦争の理不尽さと家族の絆の尊さを同時に物語っています。

現在でも摩耶山から神戸港を見下ろせば、かつて軍艦摩耶が建造され、清太の父が乗艦し、そして家族が空襲に遭った場所を一望することができます。火垂るの墓の聖地巡礼において、摩耶という存在を意識することで、作品への理解はさらに深まることでしょう。

史実との矛盾や制作秘話を含めて、摩耶は火垂るの墓という名作が持つ多層的な魅力を象徴する存在として、これからも多くの人々に記憶され続けていくに違いありません。神戸という舞台と摩耶という軍艦の関係性を理解することで、火垂るの墓というアニメーション作品が持つ真の深さを感じ取ることができるのです。

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