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火垂るの墓の小説の作者・野坂昭如とは?その生涯と作品を解説!

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火垂るの墓の小説の作者・野坂昭如とは?その生涯と作品を解説!

アニメ映画として世界中で愛され続ける『火垂るの墓』。その原作小説を執筆したのは、戦後文学界の巨人・野坂昭如です。この記事では、火垂るの墓の作者である野坂昭如がどのような人物だったのか、その生涯と作品について詳しく解説していきます。

野坂昭如とは?火垂るの墓の作者の結論

野坂昭如(のさか あきゆき)は、1930年(昭和5年)10月10日生まれ、2015年(平成27年)12月9日没の日本の小説家・作詞家・歌手・政治家です。

『火垂るの墓』は、野坂昭如の短編小説。1967年(昭和42年)10月、『オール讀物』に発表され、1968年(昭和43年)3月に刊行された短編集『アメリカひじき 火垂るの墓』(文藝春秋)に収録された。同年には『アメリカひじき』と共に、第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。実際の戦争体験を基に創作された作品で、自らを「焼跡闇市派」と称した作家としても知られています。

なぜ野坂昭如が火垂るの墓を書いたのか?その理由と背景

野坂昭如の生い立ちと戦争体験

昭和5年(1930)、神奈川県鎌倉郡鎌倉町に生まれるが、実母が3ヶ月で死去したため、すぐに神戸市永手町の張満谷善三家の養子となる。養父は石油製品を扱う貿易会社の関西支配人、養母は生母ヌイの妹にあたる。昭和20年(1945)6月5日の神戸大空襲で灘区中郷町の家を全焼。

『火垂るの墓』のベースとなった戦時下での妹との死別という主題は、野坂昭如の実体験や情念が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含んでおり、1945年(昭和20年)6月5日の神戸大空襲によって自宅を失い、家族が大火傷で亡くなったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出、1941年(昭和16年)12月8日の開戦の朝に学校の鉄棒で46回の前回り記録を作ったことなど、少年時代の野坂の経験に基づくものである。

妹への贖罪意識と自責の念

「私は溺愛の父親だ。娘の麻央を抱くと、戦争の日、私が殺した幼い妹を抱くような気がする。当代一の色事師が告白する鮮烈の記憶」という言葉が示すように、野坂昭如は戦時中に亡くした妹への強い贖罪意識を抱いていました。

野坂昭如は「火垂るの墓」の後も、『一九四五・夏・神戸』『行き暮れて雪』などの長編で、自らの戦争体験を題材にしている。これらの作品群は、すべて野坂の内なる自責の念から生まれたものでした。

野坂昭如の多面的な才能と職業

作詞家としての活動

野坂昭如は小説家として有名になる前から、作詞家として活躍していました。同年「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞作詞賞受賞。この童謡は今でも多くの人に愛され続けています。

職業・活動 主な作品・活動内容 時期
作詞家 「おもちゃのチャチャチャ」など 1960年代初期
放送作家 CMソング作詞、コント台本 1950年代後半~
小説家 「エロ事師たち」でデビュー 1963年
歌手 「黒の舟唄」「マリリン・モンロー・ノーリターン」 1969年~
政治家 参議院議員 1983年

歌手としての活動

作家・野坂昭如は1950年代から歌手活動もしている。歌手名はクロード野坂。歌手名の「クロード」は「玄人」をもじったものであり、「シロウトではないという意味」だとされる。1969年にレコードデビュー。

火垂るの墓創作の具体的な背景と実体験との違い

小説と実体験の乖離

「ことさらかわいそうな戦災孤児の兄妹、舞台は、空襲後二ケ月余り過ごしたあたりに設定。実際の妹は一歳四ケ月、これでは会話ができない。十六年生れということにし、急性腸炎で三日寝つき死んだ、前の妹と同年。あの妹が生きていたらと、はっきり残る面影をしのび、戦時下とはいえ、暮らしにゆとりがあって、ぼくは確かにかわいがった。この気持を、まったく異なる飢餓状況下に置きかえた」

「私小説と言う体裁をとっているけれど、書いている内に、公開されることを前提に書かれた日記と同じように、自分の事をそのまま上げて書いているのではなくて、ずいぶん自分を飾って書いている。だから僕はこれが(火垂るの墓)読めない。」

作者が一度も読み返さなかった理由

「ぼくはせめて、小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。」

野坂昭如は自分の代表作となった『火垂るの墓』を執筆後、一度も読み返すことはありませんでした。これは、小説の中で理想化された兄としての自分と、現実の自分との落差に苦しんでいたからでした。

野坂昭如の文学的特徴と「焼跡闇市派」

独特の文体と表現技法

1968年『アメリカひじき』『火垂るの墓』により直木賞受賞。前者は敗戦直後中学生だった男の占領軍に対する怯(おび)えや卑屈な体験・記憶を、戦後20余年経た時間のなかで身をもってありありと蘇らせられるドラマを、諧謔(かいぎゃく)に満ちた文体で描いたもの、後者は、終戦の年の9月、神戸三宮駅構内で栄養失調でのたれ死んだ戦災浮浪少年とその妹の死を描いたものである。

  • 戯作的饒舌体:江戸時代の戯作者を思わせる独特な語り口
  • 関西弁の効果的使用:故郷である神戸の言葉を巧みに織り交ぜた表現
  • 諧謔とリアリズムの融合:ユーモアと深刻な現実を同時に描く技法
  • 内省的語り手:自分自身への批判的視点を含んだ一人称語り

「焼跡闇市派」の思想と背景

空襲で養父を失い、疎開先で妹を栄養失調で亡くし放浪した。こうした体験から、「焼跡闇市派」を自称した。この自称は、戦後の混乱期を生き抜いた体験から生まれた文学的立場でした。

SNSやWEBでの反響と現代への影響

「野坂昭如の『火垂るの墓』を読むたびに、戦争の悲惨さと同時に、生きることの尊さを感じる。アニメとはまた違った深い味わいがある文学作品だと思う。」


引用:Twitterユーザーの感想

「巻頭、涙なくして読めないが、流れるような関西弁がときに優しく、ときに辛辣に聞かれて、天才語り部・野坂昭如の面目躍如たる名作だと改めて確認しました。」


引用:Amazon読者レビュー

「星5つは『火垂るの墓』のみ。幼い兄弟が戦火の後に親を喪い、浮浪児となった末に栄養失調で死ぬお話。非常に感動的で切ない内容なのは、映画を観た誰もがご存知だろう。戦争で直接的に命を失うのではなく死因が栄養失調というのがポイントで、そこに様々なテーマを読み取ることが出来ると思う。」


引用:Amazon読者レビュー

野坂昭如の晩年と遺産

脳梗塞後の執筆活動

2003年5月26日、72歳のときに脳梗塞で倒れてからはリハビリを続けながら 執筆活動を行ない、テレビ・ラジオには出演しなかったが、TBSラジオ『土曜ワイドラジオTOKYO 永六輔その新世界』『六輔七転八倒九十分』の「野坂昭如さんからの手紙」というコーナー で12年間、毎週近況を報告し、月刊誌『新潮45』に「だまし庵日記」(2016年1月号まで、絶筆となる)、『毎日新聞』に隔週で「七転び八起き」(2015年3月まで)、『週刊プレイボーイ』に「ニッポンへの遺言」(2009年7月13日号まで)を執筆した。

死去と文学史上の位置づけ

2015年12月9日、自宅で意識が無い状態にあったのを発見され、都内の病院に搬送されたが、同日午後10時37分ごろに心不全による死亡が確認された。85歳没。

野坂昭如の主要作品と受賞歴

主要小説作品

  • 『エロ事師たち』(1963年):デビュー作、三島由紀夫らが絶賛
  • 『火垂るの墓』(1967年):代表作、直木賞受賞作
  • 『アメリカひじき』(1967年):直木賞受賞作
  • 『骨餓身峠死人葛』(1969年):戦争体験を題材とした長編
  • 『一九四五・夏・神戸』:神戸空襲を描いた自伝的長編
  • 『同心円』(1997年):吉川英治文学賞受賞作

受賞歴一覧

賞名 作品名
1963年 日本レコード大賞作詞賞 「おもちゃのチャチャチャ」
1968年 第58回直木賞 「火垂るの墓」「アメリカひじき」
1985年 講談社エッセイ賞 「我が闘争 こけつまろびつ闇を撃つ」
1997年 吉川英治文学賞 「同心円」
2002年 泉鏡花文学賞 「文壇」およびそれに至る文業

別の視点から見た野坂昭如という作家

野坂昭如は単なる反戦作家ではありません。彼は戦後日本社会の矛盾と人間の内面の複雑さを描き続けた作家でした。

アメリカとの戦争において人生を狂わされながらも、そのアメリカから恩恵を受け、野坂昭如自身、命をつなぎ、そして日本という国が発展してきたということ。その過程で、日本は加速度的にアメリカ化していきます。戦前の皇国教育のなかで「鬼畜米英」と教え込まれてきた価値観は、完全に否定されたのです。

彼の作品には常に「うしろめたさ」という感情が流れており、これが戦後日本を生きる人々の心情を代弁していたからこそ、多くの読者の共感を得たのです。

現代における野坂文学の意義

「二十年たった。日本人はみな野坂昭如氏の名篇『火垂るの墓』を何とかして忘れようと努め、しかしつひに忘れることができなかった。もちろんわたしもまた。」

この言葉が示すように、野坂昭如の作品は忘れたくても忘れられない記憶として、日本人の心に深く刻まれています。それは単なる戦争体験談ではなく、普遍的な人間の愛と失敗、贖罪と希望を描いた文学だからです。

まとめ

火垂るの墓の作者・野坂昭如は、自らの戦争体験と妹への深い贖罪意識から生まれた「焼跡闇市派」の代表的作家です。小説家、作詞家、歌手、政治家と多彩な顔を持ちながら、一貫して戦後日本社会の矛盾と人間の内面を描き続けました。

『火垂るの墓』は野坂昭如の実体験を基にしながらも、現実とは異なる虚構として描かれた作品です。この虚構性こそが、作者自身を苦しめる一方で、作品に普遍性を与え、世界中の人々に愛され続ける理由となっています。

野坂昭如という作家を知ることで、『火垂るの墓』という作品がただの反戦小説ではなく、人間の愛と罪、記憶と忘却について深く考えさせる文学作品であることが理解できるでしょう。彼の残した作品群は、戦争を知らない世代にとっても、人間の本質を考える貴重な文学的遺産として今も輝き続けています。

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