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火垂るの墓の主人公は誰?清太と節子の関係性から紐解く真の主人公論を徹底解説!

火垂るの墓の主人公は誰?清太と節子の関係性から紐解く真の主人公論を徹底解説! 火垂るの墓情報
火垂るの墓の主人公は誰?清太と節子の関係性から紐解く真の主人公論を徹底解説!

火垂るの墓の主人公は誰なのか?意外と奥深い主人公論

アニメ映画「火垂るの墓」を語る上で、実は意外と議論になるのが「この作品の真の主人公は誰なのか?」という問題です。

多くの人は清太(せいた)が主人公だと考えるでしょう。確かに物語は清太の視点で語られ、彼の行動によって物語が進んでいきます。しかし、節子(せつこ)こそが真の主人公だという見方も存在します。

結論から言うと、「火垂るの墓」は清太を語り手とした、節子を中心とする兄妹の物語というのが最も適切な解釈でしょう。清太は物語の進行役であり、節子は物語の核心となる存在なのです。

清太が主人公とされる理由

物語の語り手としての清太

「火垂るの墓」は清太による回想の物語であり、彼の命日である昭和20年9月21日にその回想は始まる構造になっています。映画の冒頭では、三ノ宮駅構内で息を引き取る衝撃的なシーンから始まります。

清太(せいた)は、14歳。神戸市立中の3年生。海軍軍人の父親のもと育てられたため、実直で、妹思いのやさしい性格として描かれています。

項目詳細
年齢14歳(中学3年生)
性格実直で妹思い
家庭環境海軍大尉の父、上流階級
物語での役割語り手・行動の主体

行動の主体としての清太

物語を通して、重要な決断を下すのは常に清太です。親戚のおばさんの家でお世話になるも、理由をつけて学校に行こうとはせず、仕事もしない。おばさんに嫌味を言われ続けた結果、七輪を買ってきて妹の節子と2人だけでご飯を食べようとする。ついには家から出て行き、壕で暮らそうとするという一連の行動は、全て清太の判断によるものです。

清太の成長と変化

清太は物語を通して大きな変化を経験します。最初は裕福な家庭で育った甘えた少年でしたが、戦争という過酷な現実の中で、妹を守ろうとする責任感の強い兄へと変化していきます。

しかし同時に、清太は学校にも行かずに働かない選択をした上、家事を手伝うこともなく、日中はゴロゴロ過ごすか節子と遊んでいたのです。態度も悪く、食事を出して貰ってもお礼もせずに文句をつける始末という側面も持っていました。

節子が真の主人公という視点

物語の感情的中心としての節子

清太の妹は、4歳の節子。ドロップ(飴)が好きで、ドロップの缶を持ち歩いている。まだ母親に甘えたい時期なのに、空襲で母を失くし、兄の清太をいつも頼りに慕っている存在です。

節子は物語の感情的な核心を担っています。観客が涙を流すのは、清太の苦悩よりも、節子の無邪気さと死への道のりに対してです

項目詳細
年齢4歳
性格無邪気で兄を慕う
象徴的要素ドロップ缶、純真さ
物語での役割感情の中心・犠牲者

節子の隠れた強さ

興味深いことに、節子は清太から母が亡くなった事は聞かされず、「病院に入院しているからもう少し良くなったら見舞いに行こうな」と誤魔化された。しかし中盤で実は叔母から母が既に亡くなった事を聞き、知っていた事が判明しています。

つまり、節子は母の死を知りながらも、それを表に出さず生活をしていたのです。この事実は、4歳の幼い節子が実は非常に強い精神力を持っていたことを示しています。

節子の死が物語の核心

栄養不足で体が弱り、意識が朦朧としている節子は、おはじきをドロップと勘違いして、口に入れようとします。それを見て、思わず清太は「節子、それドロップやない」と叫びます。この有名なシーンが示すように、物語の最も印象的な場面は全て節子に関わるものです。

二人の関係性から見る主人公論

清太が守りたかった三つのもの

清太が守りたかったものは大きく分けて3つです。1.プライド 2.節子を悲しませないこと 3.自分(清太)と節子の命。

この三つの中で、最も重要だったのは「節子を悲しませないこと」でした。母親に会えず、悲しみ、泣いてしまった節子 清太は、そんな節子を悲しませたくなく、逆上がりをしましたというエピソードが象徴的です。

パワーバランスの変化

14歳の清太ではなく、なぜ4歳の女の子の節子だけが栄養失調で病気に罹ったのか。基礎代謝も違うでしょう、清太は沢山外を回ってひたすら2人が生きる道を探していました。でも、節子はただ家でで待っていましたよね。絶対清太の方が栄養を消費するはずなんです。

この指摘は重要で、清太が本能的に「自分が明日生きていられるか」の方を優先してしまった可能性を示唆しています。節子のために買ってきたスイカも卵粥も、しれっと食べた状態の描写を挟んでいましたよね。節子が目を覚まさなかったのにそうなっているということは…。だからきっとそれまでも本当はもっと節子に分け与えられたはずなんです。

高畑勲監督の意図から見る主人公論

現代的な少年としての清太

高畑監督は公開当時の雑誌「アニメージュ1988年5月号」で、「清太たちの死は全体主義に逆らったためであり、現代人が叔母に反感を覚え、清太に感情移入できる理由はそこにある」として、「いつかまた全体主義の時代になり、逆に清太が糾弾されるかもしれない。それが恐ろしい」と語っていました。

清太というのは違う。おばさんにイヤ味を言われると、その屈辱に耐えないでパッとそこから身をひいて別の行動をとる。ガマンをしない。そういう清太の気持ちは、むしろ、いまの子どもたちの方がよくわかるんじゃないかと思うんですと監督は述べています。

永遠のループとしての物語構造

主人公の清太の死から始まり、時間が巻き戻り、節子とともに第三者のような目線で生前の自身たちの姿を見続けていくという特殊な構成です。つまり本作の物語は、死んだ清太と節子が幽霊になって時間が戻り、また死んで幽霊となって時間が戻る……という永遠のループに巻き込まれているのです。

この構造は、清太と節子の両方が同等の重要性を持つことを示しています。

SNSや専門家の意見

「大人になって気付いたこと 西宮のおばさんが言ってることが正論で清太がクズだったということ」


引用:https://cut-elimination.hatenablog.com/entry/2023/07/26/214805

この意見は清太を主人公として見た時の批判的な視点を表しています。大人になってから見返すと、清太の行動の問題点がより鮮明に見えてくることを示しています。

「節子の気持ちよりも食欲を優先した瞬間を後悔して死にきれないでいる清太の回想物語として描かれる映像は、この構成でなければ伝わらない人間の太い欲と清い理性の物語」


引用:https://eiga.com/movie/39423/

この考察は、清太の内面的な葛藤を主軸とした物語解釈を提示しています。清太の理性と本能の葛藤が物語の核心だという視点です。

「この映画を観て、子ども2人が一方的被害者であり、可哀想だと涙したという感想を持つ方が多かった印象がありますし、清太に意地悪をした親戚の叔母さんは、悪者扱いされていました。しかし、最近、「火垂るの墓」の主人公の清太は自己責任だ!という感想をもつ方が増えているように思います」


引用:https://note.com/haba_survivor/n/ne865dc01c45e

時代とともに清太に対する見方が変化していることを指摘しています。これは主人公像の複雑さを示すものです。

「清太は未熟です。「節子のため」より「自分のため」を優先してしまう子なんです。最後節子を火葬する時に、清太は何でドロップス缶を節子から取り上げたんでしょうか…。」


引用:https://note.com/sumoving/n/n232d9f20b868

この指摘は、清太の未熟さと矛盾を鋭く突いています。兄としての愛情と、生存本能の間で揺れる清太の人間性を浮き彫りにしています。

真の主人公は誰なのか?別の角度からの考察

ダブル主人公としての解釈

実は、「火垂るの墓」には明確な単独主人公は存在しないとも考えられます。清太は行動の主体であり、節子は感情の核心です。二人が揃って初めて、この物語は完成するのです。

主人公は、清太(14歳)と、妹の節子(4歳)。神戸大空襲で自宅が焼失し、母親を失くした兄妹は、親類の家に身を寄せていました。しかし食糧不足が進み、厄介者扱いされるようになった2人は、山の穴で2人だけで暮らし始めますという説明が示すように、物語は常に「二人」を主語として語られています。

清太と節子の相互依存関係

清太は節子を守ることで自分の存在意義を見出し、節子は清太に依存することで生きる希望を保っていました。どちらか一人では物語は成立しません

  • 清太:物語の推進力、決断者、保護者
  • 節子:物語の感情的中心、被保護者、純真さの象徴

物語構造から見る主人公の定義

語り手と主人公の分離

「火垂るの墓」の特徴は、語り手(清太)と物語の中心(節子)が分離している点にあります。清太は既に死んだ状態で物語を振り返り、その中で節子との日々を描いています。

高畑勲監督は「死によって達成されるものはなにもない」という考えがあったそうで、苦しい体験を繰り返している2人の幽霊を指して「これを不幸といわずして、なにが不幸かということになる」とも語っています。

観客の感情移入の対象

多くの観客が最も感情移入するのは節子です。その無邪気さ、悲劇的な運命、そして最期の姿は、観る者の心を強く打ちます。一方で、清太に対しては批判的な見方も多く存在します。

これは、感情的な主人公は節子であり、物語的な主人公は清太であることを示しています。

まとめ:火垂るの墓の真の主人公とは

「火垂るの墓の主人公は誰か?」という問いに対する答えは、「清太と節子の両方」というのが最も適切でしょう。

清太は物語の語り手・行動の主体として機能し、節子は感情の核心・物語の象徴として機能しています。どちらか一人だけでは、この深い感動と複雑な人間ドラマは生まれなかったでしょう。

高畑勲監督が描こうとしたのは、戦争という極限状況における人間の複雑さと矛盾でした。完璧ではない兄・清太と、無垢な妹・節子の対比を通して、現代にも通じる普遍的な人間の姿を描き出したのです。

最終的に、「火垂るの墓」は清太の視点で語られる、節子を中心とした兄妹の物語として理解するのが最も深く作品を味わえる見方といえるでしょう。

この作品を再び観る時は、清太と節子のどちらが主人公かではなく、二人の関係性の中に描かれた人間の本質に注目してみてください。きっと新たな発見があるはずです。

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