火垂るの墓の真の意味:高畑勲監督が描いた本質とは
火垂るの墓の本当の意味は「共同体から脱落した人間の悲劇」であり、単純な反戦映画ではないというのが結論です。


1988年に公開されたスタジオジブリの『火垂るの墓』は、多くの人が「戦争の悲惨さを描いた反戦映画」として理解していますが、高畑勲監督自身が「これは反戦メッセージの映画ではない」、「火垂るの墓を見ても、戦争反対の意思が芽生えるはずがない」と言い続けている通り、作品の真の意味はもっと深い部分にあります。
この作品が描いているのは、戦争という極限状態において、社会の共同体から離脱してしまった兄妹が、どのような運命を辿るのかという普遍的なテーマなのです。
高畑監督が語った作品の構造
高畑監督は「野坂さんの原作は、心中モノの構造をもっていて、非常に閉じた世界なんですよ」と語り、「表現上の野心のほうが強い」と制作意図を明かしています。
つまり、『火垂るの墓』は戦争を舞台にしていますが、本質的には愛し合う兄妹が心中に向かう物語の構造を持っているのです。
なぜ反戦映画ではないのか?監督の明確な意図
高畑勲監督の一貫した発言
高畑監督は「ああいう作品が反戦映画とよばれることには異論があります。戦争に負けそうになってから人々がどんなに悲惨な目に遭ったかをいくら描いたところで、これからの戦争を防ぐ力にはならないと思うのです」と明言しています。
その理由について、監督は「為政者は次の戦争をはじめるとき、『こんな悲惨な目に遭わないためにこそ、戦争をしなければならないのだ』と言うに決まっているからです」と説明しています。
戦争の現実的描写
さらに興味深いのは、「戦争中は強制されてずっと悲惨な状態が続いていたと思い込んでいる人がいるのですが、日常生活はいつもそんなに惨めだったわけがありません。それこそ勝ちいくさには酔ったように感動したし、負けはじめて玉砕などということになっても悲壮感に燃えたりしていた」という監督の証言です。
これは、戦争を一面的に描くことの危険性を指摘しており、『火垂るの墓』が目指すリアリズムの本質を表しています。
原作者野坂昭如の体験と懺悔の物語
実体験に基づく創作
野坂昭如は実際に妹を戦争で失っており、「かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹・恵子へのせめてもの贖罪と鎮魂の思いを込めて、野坂は『火垂るの墓』を書いた」のです。
項目 | 野坂昭如の実体験 | 小説『火垂るの墓』での描写 |
---|---|---|
妹への対応 | 疎ましく感じ、泣き止ませるため頭を叩くこともあった | 優しく愛情深い兄として描かれる |
食事 | ろくに食べ物も与えなかった | 必死に食料を確保しようとする |
妹の最期 | 誰にも看取られることなく餓死 | 兄に看取られながら息を引き取る |
野坂自身が「ぼくはあんなにやさしくはなかった」と語っているように、この作品は現実の野坂ができなかった理想の兄の姿を描いた懺悔と鎮魂の物語なのです。
節子という名前の意味
「節子」という名は野坂の亡くなった養母の実名であり、小学校1年生の時に一目ぼれした初恋の同級生の女の子の名前でもあったという事実からも、この作品に込められた作者の深い思いが窺えます。
清太の行動に見る現代社会への警鐘
清太への批判と高畑監督の予見
現在、インターネット上では清太の行動に対する厳しい批判が多く見られます。「働かない」「プライドが高すぎる」「叔母さんが正しい」といった意見です。
しかし、高畑監督は1988年の時点で「果たして私たちは、今清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。清太になるどころか、(親戚のおばさんである)未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか、僕はおそろしい気がします」と予言的な発言をしています。
共同体からの排除の恐ろしさ
この作品が示しているのは、社会の共同体から外れた者に対する冷酷さです。現代でも「日本で行われている生活保護受給者やホームレスに対する差別など、共同体が持つ、共同体から外れたもの、共同体から役に立たないものとと認定された者に対する冷酷さ、苛酷さという意味では、今見ても通用する内容」なのです。
SNSやWEBで話題の投稿とその考察
1. 清太への現代的批判に対する考察
「大人になって気付いたこと 西宮のおばさんが言ってることが正論で 清太がクズだったということ」
引用:https://twitter.com/Mory_Mitsuhide/status/1682216691234567168
このようなツイートがバズる現象こそが、高畑監督の危惧していた「清太を指弾する」状況そのものです。現代社会の自己責任論の浸透を如実に表しています。
2. 同時上映作品への言及
「トトロの同時上映が火垂るの墓なので、初めてサンダルが見つかったシーンみた人は気が気じゃなかったに違いない」
『となりのトトロ』との同時上映だったことで生まれた対比効果は、「あの2本立ては、反戦のメッセージだけでなく、日本人にとって『死』や『異界』とは何かを深く問いかけていた」という評価に繋がっています。
3. 放送されなくなったことへの疑問
「終戦記念日頃に『火垂るの墓』を放送していたのに、いつのまにか放送しなくなりましたね。語り継いでいかないといけないって言いながら放送しない。」
近年の地上波放送の減少は、作品の重いテーマ性と現代社会の価値観の変化を反映していると考えられます。
4. 海外での反応
「私の知る限り、最も力強いメッセージを持つ反戦映画、それが『火垂るの墓』だ。芸術作品としての価値で語るなら、ピカソのゲルニカやエルガーのチェロ協奏曲と同ランクと言える」
海外では依然として反戦映画として評価される傾向が強く、文化的背景の違いが解釈に影響していることが分かります。
5. 親世代の視点
「家族をもって(あるいは、一定大人になって)この映画を再度見ると、見方が全然違って、本当に『これ以上見ていられない』という言葉がふさわしい映画でした」
親の立場から見た時の衝撃は、作品が持つ普遍的な家族愛のテーマを浮き彫りにします。
アニメーションが可能にした「死」の表現
映画史上初の成功例
大林宣彦監督は「映画は百年間、いろんな技を探求してきましたが、人間の”死”だけはどうしても描けないんです。劇映画というものは、ご承知の通り、演技ですよ。つまり、演技で絶対にできないものは”死”なんです」と述べ、高畑さんの『火垂るの墓』について「ああ、アニメのひとコマだ。”死”だと。あの節子を、ひとコマで描いたから”死”になっていた。しかもそれを確信犯的に”死”の表現に使ったのは、これはアニメも含めて高畳さんが映画史上初」と評価しています。
アニメーションの表現可能性
「節子のヒトコマ」は同じ「時間芸術」たる「音楽」がストップした時の不思議な静寂のように、曇りなく純粋な「死」だけがそこに在る。それは「アニメーションという技」の誉れであり、高畑監督がアニメーションというメディアでしか表現できない領域に挑戦した結果なのです。
現代社会に通底する作品の意味
自己責任論への警鐘
清太への批判が高まる現代の状況について、「主人公の行動に対して『自己責任』論のような見方が生まれている」「『我慢しろ、現実を見ろ、と冷淡な意見が多くて驚いた』と映画ライターの佐野亨さん」という指摘があります。
これは現代日本社会における弱者への共感力の低下と自己責任論の浸透を表しており、『火垂るの墓』が現代にこそ必要な作品である理由を示しています。
共同体の重要性と危険性
作品は共同体からの離脱の危険性を描く一方で、全体主義的な共同体への盲従の危険性も示唆しています。「人間は社会に迎合しなくてはならない(すべき)、だからこそ社会には正しくあって欲しい」というメッセージが込められているのです。
作品の構造から読み解く真の意図
「主人公たる資格」のない清太
高畑監督は「私たちはここでおそらくはじめて、”主人公”たる資格に欠けた”人物”と”社会”を主人公にしたアニメーションを作り上げたのだと。私自身としてはその後「火垂るの墓」でふたたび主人公たる資格のない”清太”という少年を取り扱うことになります」と語っています。
これは従来の英雄的な主人公とは異なる、弱い人間の等身大の姿を描くという高畑監督の一貫した姿勢を表しています。
煉獄としての死後
高畑勲監督は「死によって達成されるものはなにもない」という考えがあったそうで、苦しい体験を繰り返している2人の幽霊を指して「これを不幸といわずして、なにが不幸かということになる」と語っています。
つまり、清太と節子は死後も永遠に同じ苦しみを繰り返すという煉獄の状態にあり、「死によって救われる」という安易な解釈を否定しているのです。
別の切り口から見る作品の意味
時代を超えた普遍性
「共同体から脱落してしまった人間がどうなるのかという、戦時平時関係ない題材」として『火垂るの墓』を捉えると、現代社会の様々な問題との共通点が見えてきます。
- 不登校・ひきこもり問題
- 生活保護バッシング
- ホームレスへの偏見
- 社会復帰の困難さ
これらすべてに共通するのは、共同体から外れた者への社会の冷たさです。
リアリズムの追求
『火垂るの墓』が目指しているのは、高畑監督がそれまでに培ってきた、「生活を丹念に描くことで人間を描く」という作家性を駆使しながら、悲惨な運命をたどる兄妹の暮らした日々を、リアリズムによって描写しぬくということでした。
このリアリズムへの徹底的なこだわりが、観る者に強烈な印象を与え、時代を超えて議論される作品となった理由なのです。
まとめ:火垂るの墓が現代に問いかけるもの
『火垂るの墓』の真の意味は、戦争の悲惨さを描くことではなく、社会の共同体から脱落した人間がどのような運命を辿るのかを普遍的に描くことにあります。
高畑勲監督が一貫して「反戦映画ではない」と主張し続けたのは、この作品が持つより深い社会的メッセージを理解してもらいたかったからです。清太への現代的な批判の高まりは、まさに監督が危惧していた「弱者を指弾する」社会の到来を物語っています。
原作者野坂昭如の実体験に基づく懺悔と鎮魂の物語でもある『火垂るの墓』は、アニメーションという表現手法だからこそ可能になった「死の表現」の傑作であり、現代社会の自己責任論や共同体からの排除という問題に対する重要な問いかけを含んでいます。
この作品を単純な反戦映画として消費するのではなく、現代を生きる私たち自身の姿を映す鏡として向き合うことが、高畑勲監督が本当に望んでいたことなのかもしれません。そして、その視点こそが、戦後80年近くが経った今でもこの作品が色褪せることなく、議論され続ける理由なのです。

