アニメ映画「火垂るの墓」を観た多くの人が疑問に思うのが、「この物語は一体どこの話なのか?」ということでしょう。美しくも悲しい清太と節子の物語が繰り広げられる舞台は、実在する場所を詳細に描いているのです。


火垂るの墓の舞台は兵庫県神戸市・西宮市
火垂るの墓の舞台は、兵庫県神戸市と西宮市です。これは原作者である野坂昭如氏の実体験に基づいており、物語に登場する場所のほとんどが実在する場所をモデルとしています。
野坂自身の戦争体験を題材とした作品で、兵庫県神戸市と西宮市近郊を舞台に、戦火の下、親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとする物語です。太平洋戦争末期、兵庫県武庫郡御影町(現在の神戸市東灘区)に住んでいた清太と節子は、6月5日の神戸大空襲で母も家も失い、父の従兄弟の嫁で今は未亡人である兵庫県西宮市の親戚の家に身を寄せることになります。
なぜこの結論になったのか?野坂昭如の実体験
「火垂るの墓」が兵庫県を舞台としている理由は、原作者野坂昭如氏の実際の戦争体験にあります。
75年前の6月5日の神戸大空襲で、野坂少年は当時1歳の妹を連れて9日に西宮へ到着。翌月7月31日に福井へ疎開するまでの52日間を西宮の満地谷で過ごしました。
野坂昭如氏は1945年、まだ14歳の少年でした。太平洋戦争末期の1945年6月5日の神戸空襲で焼け出された野坂さんは、西宮の満池谷町にあった親戚宅を頼ります。その時の体験をもとに創作し、幼い兄妹が懸命に防空壕などで生活したことが描かれています。
作者の証言から読み解く真実
野坂昭如氏は自身の体験について、後に赤裸々に語っています。野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めています。「ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかった」と、小説中の清太にその想いを託したのです。
具体的な舞台の場所一覧
火垂るの墓に登場する具体的な場所は、現在でも特定することができます。以下に主要な舞台となった場所をまとめました。
場所名 | 現在の所在地 | 物語での役割 |
---|---|---|
清太・節子の実家 | 神戸市東灘区御影本町六丁目・八丁目あたり | 兄妹が住んでいた家 |
JR三ノ宮駅 | 神戸市中央区 | 清太が最期を迎えた駅 |
御影公会堂 | 神戸市東灘区御影石町 | 母親との待ち合わせ場所 |
石屋川 | 神戸市東灘区 | 空襲で歩いた川沿い |
阪急夙川駅 | 兵庫県西宮市 | 親戚の家へ向かう際に降りた駅 |
満池谷町 | 兵庫県西宮市満池谷町 | おばさんの家があった場所 |
ニテコ池 | 兵庫県西宮市満池谷町 | 兄妹が暮らした防空壕の近く |
西宮回生病院 | 兵庫県西宮市 | 母親が入院していた病院 |
神戸市内の舞台
JR三ノ宮駅では、映画の冒頭で兄清太が亡くなったシーンが描かれました。清太が最期に凭れていた大きな円柱は、現在もあります。また、御影公会堂は、戦災で外壁を残し内部がほぼ全焼したそうです。戦災、震災を乗り越えた奇跡の「御影公会堂」は、国の登録有形文化財に登録されています。
西宮市内の舞台
舞台となった西宮市の満池谷町は、アニメにも登場する貯水池「ニテコ池」の南側に位置します。周辺には地形を利用して斜面に横穴式の防空壕が10ほど掘られていたという。
現在の聖地巡礼事情
「火垂るの墓」の舞台となった場所は、現在でも多くの人が訪れる「聖地巡礼」スポットとなっています。
火垂るの墓記念碑の建立
2020年6月7日、兵庫県西宮市の西宮震災記念碑公園に「火垂るの墓記念碑」が建立されました。
西宮市にある西宮震災記念碑公園で、「火垂るの墓」記念碑の除幕式が行われました。公園の藤棚近くにある記念碑は、「アンネのバラ」をはじめ四季折々の花に囲まれています。「小説 火垂るの墓 誕生の地」と刻まれた碑は、台座からの高さが2.2メートル。園内の他の碑に比べこぢんまりとしていて、ほんのりピンクがかったさくら御影石を使っているせいか柔らかな印象です。
地元住民による調査活動
元高校教諭の二宮一郎さんと地元に住む土屋純男さんが野坂の自伝的小説「ひとでなし」の記述を手掛かりに、当時を知る住民数十人に聞き取り調査を実施。野坂とみられる少年を目撃したとの証言も得て、野坂が義理の妹と過ごした防空壕や親類宅の場所を確認しました。
SNSやWEBでの話題投稿紹介
「蛍の光は上の方に上がると光が尾を引いています。この絵をアプリを利用して明度を上げると空には爆撃機が浮かんできます。蛍の光は焼夷弾としても描かれているのですね、そして蛍は火垂とも書き、読み方を変えると『ひがたれる』とも読める。」
この投稿では、作品タイトルに込められた深い意味について解説されており、多くの読者の関心を集めています。
「戦後75年を生きる子どもたちには、戦争の悲惨さを伝える前に、配給や空襲といった言葉の意味から丁寧に教える必要がある。戦争を伝える人間がいなくなるからこそ、形に残す意味があると思う」
火垂るの墓記念碑建碑実行委員会の代表、土屋純男さんの言葉です。戦争体験の風化を防ぐ重要性を訴えています。
「舞台となった西宮市の西宮回生病院、香櫨園浜・夙川駅・夙川公園、ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川などを、モデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある。」
現在でも多くの人が聖地巡礼を行っていることが分かります。教育委員会主催の見学会も開催されているほどです。
別の切り口から見る舞台の意味
火垂るの墓の舞台が兵庫県に設定されたのは、単なる偶然ではありません。この地域は戦時中、軍事的に重要な拠点であり、激しい空襲を受けた場所だったのです。
神戸大空襲の歴史的背景
1945年6月5日に発生した神戸大空襲は、神戸市の中心部を壊滅させた大規模な空襲でした。この空襲により、清太と節子の母親も命を失い、二人の運命が決定づけられました。
故・野坂昭如さんの自伝的小説「火垂るの墓」ゆかりの場所を巡る「火垂るの墓を歩く会」が開催され、参加者が御影公会堂など小説やアニメ映画で描かれた場所を歩き、戦争の面影をたどっています。
阪神間文化圏としての意味
神戸市と西宮市は、関西地方でも特に文化的に発達した「阪神間」と呼ばれる地域に属します。夙川駅周辺は、阪神間の中でも屈指の高級住宅街として知られており、特に駅の北西は豪邸が立ち並んでいます。このような文化的に豊かな地域であっても、戦争は容赦なく人々の生活を破壊したのです。
現代への継承活動
現在も様々な形で、「火垂るの墓」の舞台としての記憶が継承されています。
- 記念碑の建立:西宮震災記念碑公園に建てられた記念碑
- 定期的な見学会:地元教育委員会による聖地巡礼ツアー
- 朗読劇の上演:ボランティア団体「陽なたの会」が、火垂るの墓の朗読劇を上演する活動
- 音楽公演:兵庫県立芸術文化センターでのオーケストラ演奏と朗読による音楽詩の公演
まとめ
火垂るの墓の舞台は兵庫県神戸市と西宮市であり、これは作者野坂昭如氏の実体験に基づいています。
物語に登場するJR三ノ宮駅、御影公会堂、石屋川、阪急夙川駅、満池谷町、ニテコ池、西宮回生病院などは、すべて実在する場所をモデルとしており、現在でも多くの人が訪れる聖地となっています。
特に2020年に建立された「火垂るの墓記念碑」は、戦争の記憶を後世に伝える重要な役割を果たしています。原作者の実体験を基にした物語だからこそ、これらの場所は単なるアニメの舞台を超えて、戦争の記憶を伝える貴重な場所として大切に保存されているのです。
「火垂るの墓」の舞台を訪れることで、私たちは戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて感じることができるでしょう。兵庫県神戸市・西宮市という具体的な場所に込められた、野坂昭如氏の深い思いを理解することが、この作品を真に理解することにつながるのです。

