火垂るの墓の原作者・野坂昭如とは何者なのか?
『火垂るの墓』の原作者は、作家・野坂昭如(のさか・あきゆき、1930-2015)です。この作品は1967年(昭和42年)10月、『オール讀物』に発表され、1968年(昭和43年)3月に刊行された短編集『アメリカひじき 火垂るの墓』(文藝春秋)に収録された。同年には『アメリカひじき』と共に、第58回(昭和42年度下半期)直木賞を受賞した。


野坂昭如という人物を理解するためには、彼の複雑な生い立ちから始めなければなりません。小説『火垂るの墓』を手掛けた野坂昭如は、1930年10月10日に神奈川県鎌倉市に生まれますが、2ヶ月後に、実母は命を落とし、神戸の家に養子に出されます。
しかし、野坂昭如は小説家だけではありませんでした。野坂は小説家だけではなく、放送作家、歌手、作詞家、タレント、さらに政治家として参議院議員まで務めるなど、多彩な顔をもっていた。85歳で亡くなるまで精力的に活動を続け、各界の人々と幅広く交流した。
項目 | 詳細 |
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生年月日 | 1930年(昭和5年)10月10日 |
没年月日 | 2015年(平成27年)12月9日 |
出身地 | 神奈川県鎌倉市 |
養子先 | 兵庫県神戸市 |
主な職業 | 小説家、放送作家、歌手、作詞家、タレント、政治家 |
代表作品 | 『火垂るの墓』『アメリカひじき』『エロ事師たち』 |
受賞歴 | 第58回直木賞、吉川英治文学賞、泉鏡花文学賞 |
なぜ野坂昭如は『火垂るの墓』を書いたのか?贖罪の念に駆られた理由
野坂昭如が『火垂るの墓』を執筆した真の理由は、深い贖罪の念にありました。この贖罪の念を理解するには、彼の実際の戦争体験を知る必要があります。
1945年に、空襲によって養父は行方不明、養母は大怪我。 妹は2人いたのですが、上の妹は空襲前に病死、下の妹は1歳6ヶ月で栄養失調を理由に亡くなりました。
特に注目すべきは、ぼくは生まれるとすぐに、神戸へ養子にやられ、小学校五年になった時、養家先では、もう一人、女の子をもらった。昭和十六年四月のことで、この妹は名前を紀久子といい、よく肥っていて、体格優良児コンクールに出せばいいと、隣組の人などが無責任にそそのかしたのを覚えている。という記述です。
しかし、現実はアニメや小説で描かれているような美しい兄妹愛ではありませんでした。野坂昭如自身が後年告白した実体験は、はるかに壮絶でした。
実際の野坂昭如は「優しい兄」ではなかった
「自分は、火垂るの墓の清太のようないい兄では無かった。・・・恵子には暴力を振るったり、食べ物を奪ったり・・・」 「泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあった」 野坂昭如「私の小説から 火垂るの墓」(朝日新聞 1969年2月27日号に掲載)
この告白は、野坂昭如がいかに自分の過去に苦しんでいたかを物語っています。ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった。
娘の誕生がきっかけとなった創作動機
野坂昭如が『火垂るの墓』を書くきっかけとなったのは、自分の娘の誕生でした。「私は溺愛の父親だ。娘の麻央を抱くと、戦争の日、私が殺した幼い妹を抱くような気がする。当代一の色事師が告白する鮮烈の記憶」と記されています。
野坂昭如氏は、終戦後に学校で勉学に励み、音楽を始め、芸能の仕事を忙しくこなす生活を送ります。そんな中で、結婚し、第一子として女の子が生まれたことをきっかけに、過去の妹のことを思い出すようになったと語りました。
原作『火垂るの墓』と実話の具体的な違いとは?
『火垂るの墓』のアニメや映画を見た多くの人が知らないのは、原作と実際の体験には大きな違いがあるということです。これらの違いを詳しく見てみましょう。
主要な相違点一覧
- 妹の年齢:小説では4歳の設定だが、実際は1歳6ヶ月
- 血縁関係:小説では血の繋がった兄妹だが、実際は養子同士で血縁なし
- 兄の性格:小説では優しい兄だが、実際は妹に暴力を振るうこともあった
- 母親の生死:小説では母親は死亡するが、実際の養母は重傷を負いながらも生存
- 親戚の対応:小説では冷たい叔母さんだが、実際の親戚は親切だった
- 住居:小説では防空壕生活だが、実際は防空壕では暮らしていない
実際の悲劇は、野坂氏が14歳、妹の恵子がわずか1歳6ヶ月の時に起きました。しかし、小説では節子は4歳に設定されています。これには物語上の理由がありました。1歳半では物語を展開するための会話ができず、兄妹の交流や感情の機微を描きにくいためでした。赤ん坊では物語を効果的に展開できないため、作者は意図的に年齢を上げました。
最も衝撃的な事実:養母の生存
「プレイボーイの子守唄」で、野坂は空襲で養父母と祖母が亡くなったとしたが、実際には養母は重傷を負いながら生きていた。短編「焼土層」(『アメリカひじき・火垂るの墓』収録)に登場する音信不通のまま亡くなる母は、この養母がモデルだろう。
この事実は、野坂昭如の創作動機を理解する上で極めて重要です。実際、野坂はその後もこの養母について語らなかった。そのことによって、自らを「あわれな戦災孤児」と位置づけ、妹と二人だけで究極の飢餓を生き抜いたという体験をつくり上げたのだ
SNSやウェブで話題の『火垂るの墓』原作関連の投稿
日本人はみな野坂昭如氏の名篇『火垂るの墓』を何とかして忘れようと努め、しかしつひに忘れることができなかつた。もちろんわたしもまた。燒跡に生きる可憐な兄妹の物語は、版を重ね、絵本になり、アニメイションになる。忘れたいといふみんなの欲求にもかかはらず、それは国民的説話となつた。
引用:https://www.bookbang.jp/article/806075
引用
これは作家・丸谷才一が野坂昭如に贈った評価の言葉です。野坂昭如が生前、自宅の応接間に額装して大切に飾っていたほどの評価でした。
私小説と言う体裁をとっているけれど、書いている内に、公開されることを前提に書かれた日記と同じように、自分の事をそのまま上げて書いているのではなくて、ずいぶん自分を飾って書いている。だから僕はこれが(火垂るの墓)読めない。
引用:https://note.com/sanoman33/n/n425984e5a141
引用
野坂昭如自身がこの作品について語った言葉です。自分を「飾って」書いてしまったことへの深い後悔が表れています。
星5つは『火垂るの墓』のみ。幼い兄弟が戦火の後に親を喪い、浮浪児となった末に栄養失調で死ぬお話。非常に感動的で切ない内容なのは、映画を観た誰もがご存知だろう。戦争で直接的に命を失うのではなく死因が栄養失調というのがポイントで、そこに様々なテーマを読み取ることが出来ると思う。
引用:https://www.amazon.co.jp/アメリカひじき・火垂るの墓-新潮文庫-野坂-昭如/dp/4101112037
引用
Amazonレビューからの引用ですが、この作品の本質を捉えた優れた評価です。戦争の直接的な被害ではなく、栄養失調という「間接的な死因」に注目している点が重要です。
原作「火垂るの墓」は大噓である、と言う小説家。「反戦映画」としてつくったのではない、と語る監督。二人の間で生じた、映画の奇跡――。
引用:https://www.shinchosha.co.jp/book/111203/
引用
新潮社の公式サイトからの引用です。野坂昭如と高畑勲監督の間にあった微妙な温度差を示しています。
タイトルは、百科事典で蛍を引くと出てきた古語の「火垂る」に空襲のイメージを重ね合わせてつけると、6時間ほどで一気に作品を書き上げた。
引用:https://bunshun.jp/articles/-/5937
引用
文春オンラインの記事からの引用で、『火垂るの墓』というタイトルの由来と、わずか6時間で書き上げられたという驚くべき事実が記されています。
直木賞受賞時の選考委員評価と文壇での位置づけ
『火垂るの墓』が直木賞を受賞した際の選考過程も興味深いものです。前回の直木賞で『受胎旅行』が候補となったときには、選考委員の一人から選評で「作家として大成する意気をもって取り組んでいるかどうか疑わしいような悪名声がある」と苦言を呈されている。しかし、野坂はまるでそんな苦言に応えるかのように、この選評が載ったのと同じ『オール讀物』1967年10月号に『火垂るの墓』を発表した。
選考委員の評価
直木賞の選考における海音寺潮五郎の選評(結末が「明治調すぎて、古めかしすぎ」る、というコメントを含む)を受けたものとも説明可能であるが、この落は、この作品の主題でもある野坂自身の妹への贖罪の念や鎮魂の思いを表現する重要な部分でもあり、作品全体に対する直木賞の選評での高評価にも影響を与えていたものである
実際、初出版では以下のような美しい結末がありました:
その夜、布引の谷あいの螢、無数にとび立ち、一筋の流れとなり、三宮駅浜側の夏草のしげみに流れおち、くさむら一面無数の螢火にかざられたという、うち捨てられた節子の骨を、守るようにあやすようにあやすように。
しかし、この詩的な結末は選考委員の批判を受けて削除されることになりました。
野坂昭如の受賞時の”行方不明”事件
1968(昭和43)年1月22日、第58回直木賞(1967年下期)が発表され、受賞作に野坂昭如(当時37歳)の『アメリカひじき』と『火垂るの墓』が、三好徹(当時37歳)の『聖少女』とともに選ばれた。野坂は伊豆に取材旅行中で欠席、宿泊先の旅館に来たテレビ局の取材も、宿の人間に「行方不明」とことづけて無視し、翌朝の番組出演の依頼もすべて断ったという
この「行方不明」事件の背景には、「ふだんしゃっ面(つら)さらしてるんだから、こういう時くらい出ないでいよう」との判断からだった。放送作家やCMソングの作詞家として世に出た野坂は、このころにはタレントとして盛んにテレビにも出演し、マスコミの寵児となっていた。このため、文壇からは訝しがられることも多かった。という事情がありました。
原作『火垂るの墓』を読むための完全ガイド
現在、野坂昭如の『火垂るの墓』を読むには、新潮文庫版『アメリカひじき・火垂るの墓』が最も手軽です。
収録作品一覧
- 火垂るの墓
- アメリカひじき
- 焼土層
- 死児を育てる
- ラ・クンパルシータ
- プアボーイ
自らの戦争体験をもとに、親を亡くした4歳の少女と中学3年生の兄が、 戦火の下、懸命に生きる姿を描いた感動作『火垂るの墓』。 “焼跡闇市派”作家としての原点を示す、全6編。
特に注目すべき併録作品
「焼土層」は、実際には養母は重傷を負いながら生きていた。短編「焼土層」(『アメリカひじき・火垂るの墓』収録)に登場する音信不通のまま亡くなる母は、この養母がモデルだろう。とあるように、野坂昭如の実際の体験をより直接的に描いた作品です。
「死児を育てる」では、実際には泣き止まぬ妹の頭を叩いたり、拳でなぐったりした。妹はそれで寝ついたと思い込んでいたが、ずっと後になって医師に「叩かれたショックで脳震盪を起こした」と説明される。このエピソードは短編「死児を育てる」に描かれています。
映画版と原作の決定的な違い:高畑勲監督の解釈
スタジオジブリの高畑勲監督によるアニメ映画化は、原作とは異なる解釈を加えています。映画「火垂るの墓」の実質的なプロデューサーだった鈴木敏夫(当時の肩書は「月刊アニメージュ」編集長)は、こう回想する。「原作は明らかに、野坂昭如さんの妹への贖罪意識が強く、のまま
高畑勲監督は、野坂昭如の個人的な贖罪の物語から、より普遍的な戦争体験の物語へと昇華させようとしました。
具体的な脚色の例
清太と妹の節子が母親を神戸大空襲で亡くしたあと、身を寄せるこの小母さんは、劇中では「遠い親戚」としか語られず、具体的に兄妹とどのような関係であったのかには触れられていない。これに対し原作では、「父の従弟(いとこ)の嫁の実家」とはっきり書かれている。つまり、小母さんから見れば清太は、娘の夫の従兄の息子であり、まったく血のつながりのない、かなり遠い関係なのだ。
この違いは重要です。原作では小母さんが清太たちを冷たく扱う理由が明確に説明されているのに対し、映画では観客がその理由を理解しにくい構造になっています。
まとめ:野坂昭如の原作に込められた真実
『火垂るの墓』の原作者・野坂昭如は、単なる反戦作家ではありません。彼は自分の過去への深い贖罪の念から、この名作を生み出した複雑な人物だったのです。
原作を理解するために最も重要なのは、以下の事実です:
- 野坂昭如は実際には「優しい兄」ではなかった
- 妹への暴力や食料の奪い合いがあった
- 養母は実際には生存していた
- 作品は事実を美化した「贖罪の文学」である
私小説と言う体裁をとっているけれど、書いている内に、公開されることを前提に書かれた日記と同じように、自分の事をそのまま上げて書いているのではなくて、ずいぶん自分を飾って書いている。と野坂昭如自身が語っているように、この作品は事実そのままではなく、著者の願望と贖罪が混じり合った複雑な作品なのです。
だからこそ、この作品は単純な反戦文学を超えた、人間の複雑さと戦争の真の悲惨さを描いた不朽の名作となったのです。野坂昭如の原作を読むことで、アニメや映画では伝わらない、より深い人間性の真実に触れることができるでしょう。

