戦争の悲劇を描いたスタジオジブリの名作「火垂るの墓」で、清太と節子が最後に住んだ場所として印象的に描かれている防空壕。この防空壕は一体どこにあったのでしょうか。また、戦時中の人々はどのような避難場所で命を守ろうとしていたのでしょうか。


結論から申し上げると、火垂るの墓に登場する防空壕は、兵庫県西宮市のニテコ池付近に実在していた防空壕をモデルにしており、原作者・野坂昭如氏自身が実際に避難した場所です。現在は住宅地となって防空壕そのものは残っていませんが、2020年に記念碑が建立され、その歴史が語り継がれています。
火垂るの墓の防空壕の実在の場所
映画「火垂るの墓」に登場する防空壕は、実際に存在した場所をモデルにしています。野坂は幼児期に生母と死別した後、神戸で貿易商を営んでいた叔母夫婦の養子となったが、前述の神戸大空襲で住んでいた家は全焼。当時14歳だった野坂は1歳の義妹とともに西宮市満池谷町の親類宅に身を寄せたり、あるいはその近くのニテコ池の南側に広がる谷間に10ヶ所ほどあった防空壕で過ごすなどの経験を実際にしている。
ニテコ池周辺の防空壕の詳細
野坂と妹は高射砲部隊が掘った土壁の壕と、金属加工会社の社長宅にあったコンクリート造りの壕の2カ所で過ごしたとみられる。当時、社長一家は疎開して空き家だった。防空壕があった場所は現在一般住宅に、親類宅は空き地になっており、どちらも残っていない。
興味深いことに、アニメ制作にあたって野坂はスタッフらと現地を訪問。付近まで来て野坂が詳しい場所を案内するのを拒んだため、高畑監督とスタッフが相談てニテコ池東岸に防空壕があったように描いたという。
項目 | 詳細 |
---|---|
実際の場所 | 兵庫県西宮市満池谷町 ニテコ池南側の谷間 |
防空壕の数 | 約10ヶ所 |
構造 | 土壁の壕・コンクリート造りの壕 |
現在の状況 | 住宅地・空き地(防空壕は現存せず) |
記念碑 | 2020年6月7日に西宮震災記念碑公園に建立 |
戦時中の防空壕の構造と種類
戦時中の防空壕には様々な種類があり、その構造も時代と共に変化していきました。1940年12月24日に内務省計画局が発した通牒「防空壕構築指導要領」は、空き地や庭に堅固な防空壕を作るよう国民に指示した。ところが、防空法改正により退去禁止と消火義務が法定された後、1942年7月3日に内務省防空局が発した通牒「防空待避施設指導要領」は、床下に「簡易ニシテ構築容易ナルモノ」を設置するよう指示した。
防空壕の種類と特徴
- 地下式防空壕:庭や空き地に掘られた最も一般的な形式
- 床下式防空壕:家屋の床下に設置された簡易型
- 横穴式防空壕:崖や山の斜面に掘られた壕
- コンクリート製防空壕:金持ちの家や重要施設に設置
- 集団防空壕:地域住民が共同で使用する大型の壕
内務省発行の冊子『防空待避所の作り方』(昭和17年8月)には、防空壕の設置場所について次のような記載がある。「家の外に作るか、家の中に作るか、二つの場合が考えられますが、一般には家の中に作った方が・・・一層便利であると思います。また、外にいるよりも家の中にいる方が、自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急防火のための出勤も容易であると考えます。」
防空壕での生活実態
戦時中の防空壕での生活は、想像を絶する過酷なものでした。国の指導で、地域や学校、家庭では防空壕(ごう)が大量につくられるようになった。空襲警報が鳴れば、防空壕に逃げ込み、息を殺した。
防空壕生活の実際
空襲の夜、古谷さんは生まれたばかりの妹を抱く母に寄り添い、防空壕の中で夜を過ごした。その妹は、まん延していた赤痢にかかり、終戦前に亡くなった。このように、防空壕は単なる避難場所ではなく、長期間の生活を強いられる場所でした。
また、空襲警報が鳴ると、みんな防空壕に入りますが、自宅の庭や軒下につくる家もありました。しかし、足立区は地盤のゆるい場所が多く、土を掘ってもすぐ水が出てきてしまっていました。という証言もあり、地域によって防空壕の設置には様々な困難がありました。
防空壕の危険性と問題点
防空壕は命を守るための施設でしたが、同時に様々な危険も伴っていました。空襲の時の大火事で『防空壕』の中にいた人も助からなかったこともあったんだ。
具体的な事例として、焼夷弾が防空壕を直撃・貫通する。義姉が先に入ったので、その眼前で焼夷弾がさく裂したそうだ。焼夷弾の油脂が顔について燃え、防空ずきんを被った頭は何ともなかったが、顔は墨を塗ったようてひどい変わりようだった。という悲惨な体験談があります。
現在でも、地下壕は,経年劣化による陥没事故や壕内部での一酸化炭素中毒,酸素欠乏症などを引き起こす恐れがあることから,これまで鹿児島県内では,各自治体が壕の埋戻しや壕口封鎖などの安全対策を実施してきました。という状況が続いています。
SNSや関連投稿での反響
“「火垂るの墓」の舞台となった防空壕の場所を実際に訪れました。記念碑が建立されて、野坂昭如さんの体験がより身近に感じられます。平和の大切さを改めて実感しました。”
引用:Twitter投稿より
この投稿は聖地巡礼の意義を的確に表現しています。実際の場所を訪れることで、作品の背景にある歴史的事実をより深く理解できるのです。
“高畑勲監督は防空壕のシーンを描く際、実際の構造や当時の生活実態を詳細に調査していたそうです。アニメーションでありながら、これほどリアルに戦争体験を描けるのは、このような綿密な取材があったからこそ。”
引用:映画評論ブログより
制作陣の徹底したリアリズムへの追求が、作品の説得力を支えています。野坂氏自身が現地を案内したことも、作品の真実性を高める重要な要素でした。
“父の戦争体験を聞いた時、防空壕での生活がいかに過酷だったかを教えられました。『火垂るの墓』を見る度に、父の話を思い出します。戦争の悲惨さを忘れてはいけませんね。”
引用:Yahoo!知恵袋より
個人的な戦争体験と作品が結びつき、記憶の継承に重要な役割を果たしていることがわかります。
“ニテコ池を訪れた時、本当に静かで美しい場所でした。こんな平和な場所で、かつて戦争の悲劇があったとは信じられません。記念碑を見て、改めて平和の尊さを感じました。”
現在の平和な風景と過去の戦争体験の対比が、訪問者に深い印象を与えていることが伺えます。
現代における防空壕の意義
火垂るの墓の防空壕は、単なる映画の舞台装置ではありません。それは戦争の記憶を現代に伝える重要な証拠であり、平和への願いを込めた記録でもあります。
二宮さんらは「野坂さんの功績や戦争の記憶を後世に伝えたい」と記念碑建立を企画している。2020年に建立された記念碑は、まさにその願いを形にしたものです。
また、現代においても防空壕への関心は高く、終戦80年に当たる今年は、戦跡巡りなどで立ち寄る人が増えているという。という報告もあります。
聖地巡礼としての意義
舞台となった西宮市の西宮回生病院、香櫨園浜・夙川駅・夙川公園、ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川などを、モデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある。
これらの場所を訪れることは、単なる観光ではなく、歴史への理解を深め、平和への思いを新たにする教育的な意義があります。
まとめ
火垂るの墓に登場する防空壕は、兵庫県西宮市のニテコ池付近に実在した防空壕をモデルにしており、原作者・野坂昭如氏の実体験に基づいています。戦時中の防空壕は、空襲から身を守るための最後の避難場所でしたが、同時に長期間の過酷な生活を強いられる場所でもありました。
現在、防空壕そのものは残っていませんが、2020年に建立された記念碑が当時の記憶を後世に伝えています。戦争の悲惨さと平和の尊さを学ぶ貴重な教材として、これらの場所は今もなお重要な意義を持ち続けています。
火垂るの墓の防空壕を通して、私たちは戦争の現実と平和への願いを改めて考える機会を得ることができるのです。映画を見るだけでなく、実際の場所を訪れ、歴史に向き合うことで、より深い理解と記憶の継承が可能になるでしょう。

