火垂るの墓が伝えたかった本当のメッセージとは
火垂るの墓が真に伝えたかったメッセージは「現代への警告」であり、特に私たちが日常で見落としている人との関わり方や社会の在り方についての深い問いかけです。


多くの人が「火垂るの墓=反戦映画」と捉えがちですが、高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたことからも明らかなように、この作品の核心は別のところにあります。
実は「本作は決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」というのが監督自身の明確な意図だったのです。
なぜ高畑勲は「反戦映画ではない」と断言したのか
監督が考える真の反戦映画の条件
高畑監督が「反戦映画ではない」と断言する理由には深い洞察があります。「原爆をテーマにした『はだしのゲン』もそうですが、日本では平和教育にアニメが用いられた。もちろん大きな意義があったが、こうした作品が反戦につながり得るかというと、私は懐疑的です。攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか」と語っています。
さらに戦争が悲惨だということなら、いまでもそれは世界各地で実際に起きていることです。でも、為政者は次の戦争をはじめるとき、「こんな悲惨な目に遭わないためにこそ、戦争をしなければならないのだ」と言うに決まっているからですという現実的な視点を持っていました。
戦争を題材にした理由
では、なぜ戦争という背景を選んだのでしょうか。高畑監督がそれまでに培ってきた、「生活を丹念に描くことで人間を描く」という作家性を駆使しながら、悲惨な運命をたどる兄妹の暮らした日々を、リアリズムによって描写しぬくということであろう。戦争という極限状況だからこそ、人間の本質や社会の問題が浮き彫りになると考えたのです。
作品に込められた多層的なメッセージ
現代社会への警告としてのメッセージ
火垂るの墓の最も重要なメッセージの一つは、現代の私たちに対する痛烈な問いかけです。清太と叔母さんの関係について、果たして私たちは、今清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。清太になるどころか、(親戚のおばさんである)未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか、僕はおそろしい気がしますと高畑監督は語っています。
これは現代社会で困っている人を見て見ぬふりをしたり、自己責任論で片付けたりする私たち自身への警告なのです。
全体主義への反抗というテーマ
清太は生きていくためには、また妹を守るためには、悔しくとも膝を屈し、未亡人に許しを求めてこの家に留まるべきなのだ。しかし、清太も節子もそれはできない。ここに描かれているのは、「ご機嫌取りを要求する、この泥沼のような人間関係の中に身を置き続けることはできなかった。」「清太が取ったこのような行動や心の動きは、物質的に恵まれ、快・不快を対人関係や行動や存在の大きな基準とし、煩わしい人間関係を厭う現代の青年や子供たちとどこか似てはいないだろうか。」
死と生の意味を問うメッセージ
高畑監督は「死によって達成されるものはなにもない」という考えがあったそうで、苦しい体験を繰り返している2人の幽霊を指して「これを不幸といわずして、なにが不幸かということになる」と語っています。これは死を美化することへの厳しい否定であり、生きることの価値を問いかけるメッセージなのです。
メッセージの種類 | 具体的内容 | 現代への適用 |
---|---|---|
社会への警告 | 困っている人への無関心 | 孤立する人々への対応 |
全体主義批判 | 空気を読むことの強要 | 同調圧力への抵抗 |
生死観の問い | 死の美化への否定 | 生きることの意味 |
人間関係の考察 | 他者との関わり方 | 現代のコミュニケーション |
原作者野坂昭如の贖罪としてのメッセージ
実体験に基づく後悔と鎮魂
原作者の野坂昭如にとって、この作品は深い個人的なメッセージを持っています。野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には、兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒を見なくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたことを認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという。
実際、西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死しているという痛ましい現実がありました。
ぼくはせめて、小説「火垂るの墓」にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまを、くやむ気持が強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかったという野坂の言葉に、作品に込められた贖罪と鎮魂のメッセージが込められています。
理想化された兄の姿
火垂るの墓はそんな野坂の後悔を基に作られた作品だであり、この作品を「とことんまで妹に優しく寄り添う兄貴の姿」と「亡くなった妹への鎮魂」を目的として書かれたものだとすれば、作中で妹が亡くなる事が必須だったという構造になっています。
SNS・WEBで話題の投稿から見るメッセージの受容
「高畑監督は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが(「決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」とも)、反戦アニメと受け取られたことについてはやむを得ないだろうとしている。」
この投稿は、監督の意図と一般的な受け取られ方のギャップを明確に示しています。多くの人が反戦映画として受け取ることを監督は理解していながらも、真のメッセージは別にあることを示唆しています。
「『火垂るの墓』というジブリ作品を知らない人はあまりいないんじゃないかと思うほど、国民に衝撃を与えた(ある意味)問題作だ。」
この感想は、作品が単なる戦争映画を超えた「問題作」としての側面を持つことを指摘しています。観る人によって様々な解釈が生まれる複層性こそが、この作品の真のメッセージなのです。
「アニメーション『火垂るの墓』は、野坂昭如の原作小説を高畑勲が監督し1988年に公開された、今更紹介するまでもない名作である。しかし本作ほど、原作者や監督の意図を離れて、いわゆる「反戦アニメ」として「誤解」されている作品も少ないのではないか。」
この指摘は、作品の真の意図と一般的な受け取られ方の乖離を問題視しています。表面的な理解を超えて、より深いメッセージを読み取る必要性を訴えています。
「この映画は1988年に上映されてから、様々な人の目に留まり、心を動かし、反戦のメッセージがあるとして知られてきた。その印象が覆されたのは、youtubeや各SNSが流行りだし『火垂るの墓』考察動画が広がった昨今の事だ。」
この投稿は、時代とともに作品の受け取られ方が変化していることを示しています。SNS時代になってより多角的な考察が行われるようになり、作品の真のメッセージが再発見されつつあります。
「果たして私たちは、今清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。清太になるどころか、(親戚のおばさんである)未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか、僕はおそろしい気がします」
高畑監督のこの発言こそが、作品の核心的なメッセージを表しています。現代の私たちが陥りがちな冷酷さや無関心に対する痛烈な警告なのです。
現代社会への具体的なメッセージ
孤立する人々への対応について
火垂るの墓が現代に投げかける最も重要なメッセージの一つは、困っている人に対する私たちの態度です。清太と節子を見捨てた大人たちの姿は、現代社会で孤立する人々を見て見ぬふりをする私たちの姿と重なります。
清太はともかく、節子だけなら救える人はあの物語の中に何人もいたのではないだろうか?最初に身を寄せた叔母さんだって、清太を良くは思わなかったかもしれないが、「節子はおいていきなさい!」の一言があってもそこまで違和感はなかったと思うという指摘は、社会全体の無関心を浮き彫りにしています。
全体主義と同調圧力への警告
作品のもう一つの重要なメッセージは、全体主義や同調圧力に対する警告です。清太が叔母さんの家で「空気を読む」ことを拒否し、最終的に出て行くことになる経緯は、現代社会の同調圧力と重なります。
- 組織の論理に従うことを強要される現代人
- 個人の尊厳よりも集団の和を重視する社会
- 「空気を読む」ことを美徳とする価値観
- 異なる意見を持つ者への排除の論理
コミュニケーションの断絶について
清太と叔母さんの関係悪化は、現代社会でのコミュニケーション不全の象徴でもあります。お互いの立場を理解しようとせず、対話を避けることで関係が悪化していく様子は、現代の家族関係や職場関係にも通じる問題です。
作品内の問題 | 現代社会での類似問題 | 解決のヒント |
---|---|---|
清太と叔母の対立 | 世代間格差・価値観の違い | 相互理解の努力 |
周囲の無関心 | 社会的孤立・無縁社会 | 積極的な関わり |
プライドによる拒絶 | 助けを求めることの困難 | 支援システムの構築 |
食糧不足 | 格差社会・貧困問題 | 社会保障制度の充実 |
アニメーションだからこそ表現できたメッセージ
死の描写による生の価値の再認識
映画は百年間、いろんな技を探求してきましたが、人間の”死”だけはどうしても描けないんです。劇映画というものは、ご承知の通り、演技ですよ。つまり、演技で絶対にできないものは”死”なんですという映画評論家大林宣彦の指摘に対して、高畑さんの『火垂るの墓』を見たら、「ああ、アニメのひとコマだ。”死”だと。」あの節子を、ひとコマで描いたから”死”になっていたんです。しかもそれを確信犯的に”死”の表現に使ったのは、これはアニメも含めて高畑さんが映画史上初なんですよという評価があります。
アニメーションという表現手法だからこそ、真の死を描くことができ、それによって生きることの意味を問いかけることができたのです。
リアリズムによる現実への接近
高畑監督は、これまで以上に写実性を高めることによって、本質的な意味において近代文学に肉薄していく。そして、そこから得られる実感によって、時代の壁を越えて現代の若い観客と戦争の被害に遭った人を結びつけるというねらいがあったはずだ。
徹底したリアリズムにより、戦争という過去の出来事を現代の問題として受け取らせることに成功したのです。
メッセージの多面性と解釈の自由
『火垂るの墓』は、一つのテーマを観客に叩きつけるというものにはなり得ていない。だからこそ観客による自由な見方を許してしまいもするのだ。だがその一方で、耐えがたいほどのリアルさを獲得しているのも確かなのである。
この作品の優れた点は、単一のメッセージに縛られることなく、観る人それぞれが異なる気づきを得られることです。それでいながら、どの解釈においても現代社会への問いかけという共通項があります。
時代を超えるメッセージの普遍性
戦後80年を迎えたいまもなお、戦争がなくならない世界。改めて高畑さんが「火垂るの墓」という映画にどんな思いを込めていたのか、わたし自身が知りたいと思い、取材を続けました。創作ノートから見えてきたのは、いまの時代のわたしたちへのメッセージだと思っていますという制作関係者の言葉が示すように、この作品のメッセージは時代を超えて現代の私たちに語りかけ続けています。
- 個人の尊厳と社会の調和のバランス
- 困っている人への共感と具体的行動
- 死を通して見つめ直す生きることの意味
- コミュニケーションの重要性と困難
- 全体主義に対する個人の抵抗
改めて考える火垂るの墓のメッセージ
火垂るの墓は単純な反戦映画ではありません。現代社会を生きる私たち一人ひとりに向けられた、人間性と社会のあり方についての根本的な問いかけなのです。
清太と節子の悲劇は、戦争という特殊な状況下で起こったものではありますが、その本質は現代社会でも繰り返されています。孤立する高齢者、いじめを受ける子供たち、社会から取り残される人々。彼らに対する私たちの態度は、作品中の大人たちと変わらないかもしれません。
高畑監督が僕はおそろしい気がしますと語った恐れは、現代社会においてより現実的なものとなっています。SNSでの炎上、自己責任論の蔓延、弱者への冷淡さ。これらは全て、火垂るの墓が警告したメッセージの現代版なのです。
まとめ
火垂るの墓が伝えたかった真のメッセージは、戦争の悲惨さを描くことではなく、現代社会を生きる私たちへの深い警告と問いかけでした。
原作者野坂昭如の贖罪と鎮魂の思い、監督高畑勲の社会への警鐘、そして時代を超えて響き続ける人間性への問いかけ。これらが重層的に組み合わさることで、単なる戦争映画を超えた普遍的な作品となったのです。
私たちは清太を責めることで安心するのではなく、自分自身が困っている人に対してどのような態度を取っているかを問い直す必要があります。また、全体主義的な圧力に流されることなく、個人の尊厳を大切にしながらも他者との関係を築いていく道を模索することが求められています。
火垂るの墓のメッセージは、今この瞬間を生きる私たち全員に向けられた、人間として、社会の一員としてどう生きるべきかという根本的な問いなのです。この問いかけに真摯に向き合うことこそが、この名作が現代に生き続ける理由であり、私たちが受け取るべき最も大切なメッセージなのかもしれません。

